雨の日は気分が落ち込みやすい。
それは、誰にでも言えることだと思う。
少なくとも、晴れている日よりも元気になる人は、一握りだろう。
雨よりも晴れを好むのは、人間の生まれ持った習性なのかもしれない。
草花を、食物を育む、恵みの雨。
厭っているわけではない。必要なものだとわかっているから。
それでも、なんとなく心にもやがかかるのは、どうしようもなかった。
「はぁ……」
小さくついたため息が、窓ガラスを少しだけくもらせた。
窓の外には雨で煙った景色が広がっている。
もう春も間近だというのに、地上に降り注ぐ雨が温度を奪い、室内でも窓際は寒い。
ザーザーという雨音が耳にまとわりついて、だんだんと憂鬱な気分になってくる。
灰色一色の空は、すぐにやむ雨ではないことを教えてくれる。
今日はずっと、この雨音と共に過ごすことになるだろう。
雨音だけを聞いていると、まるで、この世界に自分一人しかいないような錯覚にとらわれてしまう。
たった一人の世界に閉じ込められてしまったようで。
こうして部屋に一人でいるのが、無性に怖くなってくる。
子どもっぽいと笑われるかもしれないけれど、兄さまに話し相手になってもらいにいこうか。
でも、どうせなら、こんな日に一緒にいたいのは……。
いつも甘い微笑みを向けてくる青年が思い浮かんでしまって、わたしはもう一度ため息を吐いた。
と、その時、トントンとノックの音が響いた。
どうぞと言うよりも早く、その扉が開き。
まるで自分の部屋のように堂々と入ってきたのは、ちょうど今考えていた人物だった。
「やあ、エステル」
ジルは優しく甘やかな微笑みで、わたしの名前を呼んだ。
どうやら目の前の彼は幻ではなく本物のようだ。
「ジル……! どうして……」
「歓迎してくれないの?」
どうしてここにいるの? と。
驚きすぎて言葉にならないわたしに、ジルは少し拗ねたような顔をする。
「そ、そんなわけ……」
否定の言葉を口にするよりも先に、長い足で近づいてきたジルに、ぎゅっと抱きしめられた。
ふわり、と湿気をおびたシトラスの香りに包まれる。
ジルからはいつもいい香りがする。しかも、わたし好みの。
その香りに、抱きしめられているんだ、と余計に実感させられて、わたしはあわてた。
「ジルっ!」
見た目よりもがっしりしている胸板に手をついて、距離を取ろうとする。
でも、ジルの腕はしっかりとわたしの腰と背中に回っていた。
わたしの抵抗をあざ笑うかのように、ジルはわたしの背中をさすった。
「身体が冷えてるよ。ずっと窓際にいた?」
「そうですけど、あの……」
顔をジルの肩口にうずめて、放して、と本当に小さな声でささやく。
きっと今のわたしは、耳まで真っ赤になっている。
気づかれていなければいいんだけれど、ジルのことだからお見通しだろう。
案の定、くすり、とジルが笑う気配がした。
「本当、慣れないね、エステルは」
「……嫌というわけでは、ないんです」
「わかってるよ。恥ずかしいだけなんだって」
すべてジルの言うとおりで、わたしは反論する気力もなくなってしまった。
ジルと想いを通じ合わせてから、もう何ヶ月も経つのに。
いまだにわたしは、恋人同士の触れ合い、というものに慣れずにいる。
なのにジルは、わたしの動揺もなんのその、といった様子だ。
わたしのほうばかりあわてているのが悔しくなってくる。
本気で抵抗すれば、きっとジルは放してくれるだろうとわかっていた。
でも、ジルの腕の中は、すごくドキドキするけど、なんだか居心地がいいから。
しばらくはこのままでいいか、とあきらめることにした。
「どうして、ここにいるんですか?」
「婚約者に会いに来るのに、理由が必要?」
最初に聞こうとしたことを尋ねれば、質問に質問を返された。
その声音は明らかに笑みを含んでいた。
“婚約者”という、当たり前のはずの言葉にすらわたしが照れてしまうことを知っていて、わざとその言葉を選んだんだろう。
「わざわざ雨の日に来るなら、普通は理由があるものだと思います」
なので、精いっぱい平静を装って答えを返した。
今日はジルと約束なんてしていなかった。
父さまも兄さまもジルが来るなんて言っていなかったから、本当に事前連絡もなしにやってきたんだろう。
婚約者だから、もっと言うならシュア家とイーツ家の仲だから許されるけれど、普通は失礼に当たる。
まあ、ラニアのような田舎では、そんなことを気にする人のほうが少ない気もするが。
「そうだな、あえて言うなら……雨が、エステルに会いに行けって言っているような気がしたんだ」
わたしの耳元で、優しい声がささやく。
すー……っとジルがわたしの髪をゆっくりと梳いた。
ブラッシングされる猫のような心地で、わたしは目を閉じる。
「雨が降ると、まるで狭い世界に閉じ込められてしまったように思えるから。誰かに、傍にいてほしくなる。その誰かは、僕にはエステルしか考えられなかった」
ジルの美声が、言葉が、雨のように降り注ぐ。
雨のように静かで涼やかな、けれどどこかあたたかみを感じる声。
この声が、実はけっこう好きだと告げたら、ジルは喜んでくれるだろうか。
「そんなふうに理由をつけて、ただエステルに会いたかっただけかもしれないけどね」
頭の上で、ふふっと笑う気配がした。
今、ジルがどんな表情をしているのか、なんとなくわかった。
とても、とても優しい顔をしているんだろう。
「……同じようなことを、考えていました」
ぽつり、とわたしはそうつぶやく。
そろそろと手を上げて、ジルの背中に回した。
雨の日は、一人でいると気が滅入ってくる。……人恋しくなる。
家族よりも、友だちよりも、一番に傍にいてほしいと思ったのは、ジルだった。
ジルも同じことを考えて、こうして会いに来てくれたのが、とてもうれしい。
素直にそう告げることはできないけれど、ジルならきっと、背中に回した手から汲み取ってくれるだろう。
「一緒にいる時間が長いと、考え方も似てくるって言うからね」
「あまりうれしくないですね」
「そう? 僕はうれしいけどな」
笑みを含んだジルの言葉に、わたしは言葉を失う。
ジルはいつでもどんなときでもわたしへの好意を隠さない。
まっすぐ向けられる想いは、しばしばわたしを戸惑わせるけれど、喜ばせもする。
照れ隠しに、ジルの肩口にぐりっと額を押しつけた。
「エステルも、僕に会いたかった?」
その問いかけに、わたしはゆっくり顔を上げた。
わたしを見下ろすジルと視線を交える。
海の色の瞳が、優しくわたしを促す。
答えなんて、聞かなくてもわかっているだろうに。
恥ずかしさをこらえながら、わたしはこくりとうなずいた。
一瞬にして破顔したジルに、たまには素直になるのも悪くないか、と思えた。