「少し、飲まないか」
夜も深まる時分。
めずらしく晩酌の誘いをかけてきたのは、養父《ちち》だった。
「どうかしたんですか?」
そう尋ねてしまったのも無理はないと思う。
養父はたしなむ程度に酒を飲む。晩酌をするというそのこと自体はめずらしくもなんともない。
けれど彼は、僕と積極的に関わろうとはしてこなかった。
こんなふうに気楽に誘ってくることなんて、今まで一度もなかったというのに。
「婚約祝い、といったところだろうか」
「……それなら、いただきます」
微笑みながらの彼の言葉に、了承する以外の選択肢を奪われてしまった。
今日、僕はエステルに求婚し、受け入れられた。
誕生日にプロポーズした場合は、そのままその会場が婚約発表の場となるものだ。
僕とエステルとの婚約は、パーティーの出席者全員が証人となって結ばれた。
それを祝ってくれるというなら、おとなしく受け入れるしかない。
一人がけのソファに座った養父の斜め向かいへと腰を下ろす。
使用人に持ってこさせたのは年代物のウイスキー。
冷やされたグラスに氷を入れ、互いのグラスにウイスキーを注ぎ入れる。
「まずは、婚約おめでとう」
養父はそう言って、グラスをこちらへとかたむける。
「ありがとうございます」
そのグラスに自分のグラスを軽く当てると、チンッと澄んだ音が鳴った。
彼がどんな思いで祝いの言葉を口にしているのか、推し量ることはできない。
それでも、悪意からではないだろうと思えるくらいには、彼の人となりを知っている。
「私としては、ようやく、という思いのほうが強い」
話しかけるというよりも、独り言のように、養父はこぼした。
婚約のことを言及しているのだと、すぐに気づいた。
彼は何を言いたいんだろうか。
僕に何を聞かせるつもりなんだろうか。
「お前は昔からエステル嬢しか見ていなかったからな」
「そうですね」
今さら否定するようなことでもない。
僕がうなずくと、養父はおかしそうに笑った。
彼の和らいだ表情を見る機会はそう多くはない。
二人きりのときでは初めてかもしれないと、僕は驚き、反応に困った。
間を持たせるためにグラスをあおる。
アルコールがのどを焼く感覚に、思わず眉をひそめそうになる。
成人してから数えきれないほど酒の席には立ったし、アルコールに弱いわけではない。
それでもなんとなく、強い酒のもたらす熱が、僕は得意ではなかった。
「彼女が幼いころは心配にもなったものだった。今ではいい思い出でもあるが」
グラスに視線を落としながら語る養父は、優しい目をしていた。
深い緑の瞳は、まるで愛しい我が子を映しているかのように、やわらかく和んでいる。
「一つ、いいですか?」
「なんだ?」
僕が声をかけると、彼は顔を上げた。
「ずっと、気になっていたことがあるんです。けれど答えなんてわかりきっているだろうと、勝手に決めつけていました。そんな僕に、エステルは勇気をくれた。だから、教えてほしいんです」
こんなときでも、僕の脳裏に浮かぶのはエステルだった。
『わたしだけを見ないでください』
そう、まっすぐに僕を見ながら、必死に言い募った彼女。
僕を愛してくれているだけでなく、僕の幸福を当人よりも考えてくれていた。
ともすればエステルだけに向けてしまう関心を、他にも向けるようにと。
二人だけの世界で完結してしまっては、僕も、エステルも、決して幸福とは言えない。
そうはならないために、僕はエステル以外のものも、大切にしなければいけない。
たとえば、養父との関係を。
どうして今聞こうと思ったのか。なんとなくとしか言いようがない。
ただ、今の彼なら、答えてくれるだろうと思ったから。
保身のためにごまかすこともなく、僕のことを思って嘘をつくこともなく。
それはもしかしたら、いつ聞いてもいい質問だったのかもしれない。
勝手に壁を作っていたのは、僕のほうだ。
「どうして、僕だったんですか」
あの孤児院に限定しなければ、優秀な子どもは他にもいくらでもいただろう。
数ある候補の中から、どうして僕を選んだのか。
そこに何か、優秀な子という以外の理由はあったのか。
「……そうだな」
養父は考え込むようにしながら、グラスに口をつける。
それからグラスをテーブルに置き、こちらに目を向けた。
「初めは、優秀な子だと聞いたから、というだけだった。あそこは、子ども一人一人を大切にしている孤児院だ。だから、孤児院でしあわせに暮らしている子なら、無理に養子にするつもりはなかった。お前と初めに顔を合わせたときは、ただ少し話をするだけのつもりだったんだ」
僕を映している瞳は、時おり懐かしむように細められた。
その時のことを思い出しているのだと、言われずとも伝わってきた。
「けれどお前と顔を合わせたとき、お前の目を見たときにね。寂しそうな目をしている、と思ったんだよ。まるでどこにも身の置き場がないとでもいうような、そんな不安そうな目だと。だから私はその場でお前を誘った。お前の居場所になれればいいと、そう思って」
それは不快なほどに暑い、夏の日のことだった。
背の高い養父と、年を感じさせない養母。
僕に微笑みながら養父が告げた言葉を、僕は今でも覚えている。
『私の子にならないか』
その日、僕は二人と家族になった。
その日からもう、十四年も家族を続けている。
「私たちはお前の居場所となれただろうか」
どこか不安そうに、養父は僕を見た。
「僕の家はイーツミルグです」
考えることもなく、するりとその言葉は口をついて出てきた。
あの時の決断を間違いだと思ったことは、一度もない。
少なくとも今は、寂しそうな目はしていないはずだ。
エステルがいるから。エステルが、僕と世界とを結んでくれているから。
そこにはきっと、家族との絆も含まれているんだろう。
目の前の彼との間に、確かなつながりを感じるのは、エステルのおかげだ。
「あなたの家を無事に継ぐことができて、よかったと思っています。それでは、答えになりませんか?」
「いや、充分だ」
彼はそう言って微笑んだ。
十四年前、一人だった僕に向けられたものと同じ。
優しくあたたかで、慈しみのこもった微笑み。
「あなたが僕を望んでくれなければ、僕はエステルには出会えなかったでしょう。感謝しています、……父さん」
ほとんど口にしたことのない呼称で、彼を呼んだ。
彼は驚いたように目を見開き、それからうれしそうに表情をゆるめた。
「お前が私の息子になってくれたことを幸福に思うよ」
それは本心からの言葉だったんだろう。
やわらかな表情と声音が、そう教えてくれる。
僕はきちんと微笑み返せていただろうか。
あまり自信はないけれど、大丈夫だ。
時間はいくらでもある。
これから少しずつ、歩み寄っていければいい。
僕は間違いなく、愛されているんだから。