それは甘く優しく心をとろかす(1)

 俺にとって、笹川宮乃という存在は、あたたかいココアのような存在だ。
 疲れているとき、さりげなく、けれどたしかに元気をくれる。
 へこんでいるとき、ちょっと気持ちを上向きにしてくれる。
 なくても生きてはいけるかもしれないけど、あるとこの上なく助かる、日常に寄り添ってくれるサプリメント。
 つまりは、最高の癒しであり、最高の活力剤だということだ。



 宮は子どものころから、いちいちツボを突いてくる子だった。
 俺は別に子ども好きというわけじゃなかったけど、宮だけは別格だった。
 なんといっても、笑顔がめちゃくちゃかわいい。
 花のような、とかそんなありふれた形容詞では表せない。
 言うなれば、マグカップに並々と注がれた飲みやすい温度のココアだ。しかもバンホーテンの純ココアを、ちゃんとした手順で作って、マシュマロまで浮かべたようなイメージ。
 宮の笑顔を見ていると、いつもココアが飲みたくなる。牛乳は嫌いだけどココアは好きだ。

 宮は、いつも、どんなときでも笑っていた。
 俺が元気のないときも、やさぐれているときも、そんなの知ったことかとばかりに。
 俺があまり感情を表に出さないのにプラスして、宮が鈍感だったからだろう。
 なぜかそれを無神経と感じることはなく、笑顔を向けられるたび心が安まった。

「お前の妹欲しいわ。お兄ちゃんって呼ばれたい」
「やらねーよ、変態」
「隆弘に言われたくないし。このシスコンが」

 そんな軽口を、俺の親友であり宮の兄の隆弘と言い合ったこともあった。
 名前に同じ漢字が入っているという、どうでもいいようなことがきっかけで仲良くなった隆弘は、自他共に認めるシスコンだった。
 五歳も離れているだけでなく、宮にはどこか危なっかしいところがあるから、自分が守らないとという正義感にでもかられたのかもしれない。
 周りの子よりも厳しい門限も、兄が一役買っていたことを宮はいまだに知らない。
 隆弘も隆弘で、妹にだけはシスコンな面を見せないものだから、策士というかなんというか。

 何年も変わることなく、一ヶ月に一度くらいの頻度で隆弘の家に遊びに行っていた。
 宮の、憧れに近い恋心には、早い段階で気づいていた。
 だからって何をするでもなかったけれど。
 当然だ。高校生が小学生に、大学生が中学生に、何かしようものなら犯罪だ。
 そのころはまだ、俺の宮への感情は、妹に向けるようなものだったということもある。
 かわいいもんだね、と微笑ましく思っていた。悪くない気分だったのは否定しない。

 その関係が少しずつ変わっていったのは、いつからだろうか。
 今でも明確にはわからずにいる。



 たとえば、宮が中学三年生のとき。塾に通うことになったからと携帯を買ってもらった。
 当然、アドレス帳のNo.0から2までは両親と兄で埋まる。
 じゃあその次は、となったとき、宮は友だちよりも先に俺に頼んできた。
 もちろんタイミング的なものもあったとは思う。
 携帯に詳しくない宮と宮の両親に、いくつかの機種を勧めたのは俺だった。結局は携帯ショップまでついていったのだから、その流れで、となるのはわかる。
 でも、人の感情の機敏にそれなりに敏い俺にはわかってしまった。それ以上に宮がわかりやすかったということもある。
 宮は、俺と連絡先を交換できたことを、心の底から喜んでいる、と。

「ありがとう、弘くん!」

 宮は本当にうれしそうに、笑顔でお礼を言った。
 たかがメルアドと電話番号。俺のアドレス帳には、交換したあとに一度も連絡を取ったことのない人だっていくらでもいた。
 そんなに喜ぶようなことだろうか。
 宮のような純粋さのない俺には理解できなかった。

「えへへ……」

 携帯を両手で握って、堪えきれないとばかりに笑みをこぼす。
 あの、あたたかいココアを思い出すような笑顔。
 いつものように、ココアが飲みたいと思うことはなかった。
 その代わりに、どこかが、ドクリと音を立てたような気がした。
 ココアよりも欲しいものがあるような、そんな気がした。



 携帯を持ってから、宮は一週間に一回か二回くらいの頻度でメールを送ってきた。
 恋人でもないのに、毎日メールしたらうざがられるかも。という心の声が聞こえてくるようだった。
 学校であったちょっとしたこと、友だちから聞いたおもしろい話、隆弘との喧嘩の内容。
 たわいのないメールは、いつも俺を和ませてくれた。
 もちろん俺も毎回返信をしていたし、たまに俺からメールすることもあった。
 いつでも連絡を取れるようになったからか、俺も前より宮を思い出すことが増えていた。
 宮の好きそうなお菓子を食べるときや、宮が持っていたキャラクターもののストラップを見かけたとき。
 勉強をしながら、今ごろ宮ちゃんも受験勉強をがんばっているのかな、なんて。
 代替え品のように、ココアを飲んだりしたことも一度や二度じゃなかった。

 そんな関係は宮が高校生になってからも変わらなかった。
 相変わらず定期的にメールをやりとりしているし、家にも遊びに行っている。
 実のところ、宮とのメールが原因で恋人と別れたこともあった。
 いつの時代でも、浮気調査という大義名分を掲げて彼氏の携帯を調べる女はいるらしい。
 親友の妹、というのが、そういうたぐいの女性にとって、なんの意味も持たないこともわかっていた。
 浮気だ二股だとなじられれば、俺だっていい気はしない。
 一気にぎくしゃくしていって、別れることになるのは自然なことだった。

 そのときの俺は気づいていなかった。
 恋人と宮との関係を天秤にかけて、当然のように宮を選んでいたことに。
 少しずつ、少しずつだけれど。
 俺の中で確実に、宮の存在が大きくなっていっていることに。



 自分をごまかしきれないほどに自覚させられたのは、俺が大学四年生、宮が高校二年生の春だった。
 俺は就職活動真っ只中。なかなか内定がもらえなくて、神経をすり減らしていた。
 だからというか、なのにというか、隆弘の家に行く機会は増えた。
 ストレス発散のために隆弘と遊ぶというのは口実で、実際には癒しの宮に会いに行っていたようなものだった。

 その日は、初めて圧迫面接というものを経験し、本当に気が滅入っていた。
 面接を終えたその足で、なぜか俺は隆弘の家に向かっていた。
 無性に、宮の笑顔が見たかった。
 あの、あたたかいココアのような、甘く優しく心を包み込んでくれる、俺のための栄養剤が欲しかった。

「めずらしいね、弘くん。お兄ちゃんまだ帰ってきてないよ?」

 出迎えてくれた宮は、不思議そうにしていた。
 それでも俺に会えたことを喜んでくれているのは、その顔を見ればすぐにわかった。
 本当、和むなぁ。
 宮の笑顔を見ると、ささくれ立っていた心が凪いでいく。
 大丈夫、もっとがんばれる、と思えてくる。
 そこにいるだけで、俺を支えて、後押ししてくれる。

「今日は宮ちゃんに会いに来たんだ」
「えっ……」

 正直に話すと、宮の顔は一気に真っ赤になった。
 あ、かわいい。素直な反応にくすりと笑ってから、俺は用意していた言い訳を口にする。

「隆弘と話しても愚痴のこぼしあいになっちゃうからね。ここは一つ、宮ちゃんと世間話でもして気分転換しようかと」

 あながち間違ってもいなかった。就活地獄は隆弘の身にも降りかかっているのだから。
 兄の様子を知っているからか、そっか、と宮は納得したようだった。
 少しだけ、残念そうな顔をしたことにも俺は気づいた。
 何年も変わらない宮の想いを、こうして感じるたびに、心があたためられる。
 性格悪いな、とは思わなくもない。
 これでは子どもをからかって反応を楽しんでいるようなもの。
 でも、はっきりと告白してこないのは宮のほうなんだから、と俺は開き直った。

 おばさんに挨拶をして、俺は宮の部屋へと招き入れてもらった。
 簡単に男を部屋に上げるなんて、とも思うけれど、他でもない俺だから、なんだろう。
 その信頼を裏切るつもりはもちろんない。
 おばさんが今ハマっているらしいどくだみ茶を飲みながら、宮の近況報告を聞いていた。
 世間話といっても、宮と話すとき、俺はたいてい聞き役に回る。
 それは年上だからでもあるし、宮が一生懸命話しているのを聞くのが好きだからでもあった。

「やっぱ宮ちゃんは癒しだなぁ」

 昨日の晩ご飯のおかずが唐揚げだった、なんて本当にどうでもいいようなことをにこにことうれしそうに語る宮を見ながら、俺はそうこぼした。
 宮はきょとんとした顔をする。少しマヌケなその表情もかわいい。
 嫌な思いをした面接のことなんて、もう記憶の彼方に飛んでいってしまっていた。
 やっぱり宮は俺の活力剤だ。

「アニマルテラピー。宮ちゃん癒して〜」

 夏も近いというのに、俺はべったりと宮に貼りついた。
 正面から抱きついて、力はそれほど込めずに、少しだけ体重をかける。
 もし暑かったとしても、宮は嫌がらないとわかっていた。調子に乗っている自覚はあった。

「もう、弘くん子どもみたい」

 困っているような、怒っているような、呆れているような。
 そんな口ぶりだけれど、顔は素直だ。
 頬を淡く染め、口元は笑みを刻んでいる。

「子どもな俺は嫌い?」

 宮の顔を覗き込んで、俺はそう尋ねた。
 聞いてはいけないことを聞いてしまったことに気づいたのは、口に出してからだった。
 否定してくれるのは、わかりきっていた。
 宮の答えを聞いてしまえば、後戻りができなくなる気がした。
 目の前に、今まで避けていたものを突きつけられるような気がした。
 やばいと思っても、言った言葉は元には戻せない。
 宮は軽く目を丸くして、それから。

「ううん、……好き」

 ほんわり、と笑ってみせた。
 あの、あたたかいココアのような、俺の心をとろかす笑顔。
 落ちた、と思った。
 それはもうものすごい勢いで。
 ずっとずっと、少しずつ降り積もっていた宮への想いが、急に重みを主張しだして、俺を引きずり落とした。
 もう、知らないふりをするのは無理だ。

 宮が好きだ。そう、その時俺は自覚した。



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