一杯目は、わりとすぐに飲み終わった。
枝豆をつまみつつ、サーモンとカブの和え物に舌鼓を打ちつつ、二杯目も進んだ。
三杯目を飲もう、と瓶に手を伸ばしたら、弘くんに止められた。
「もうやめておいたほうがいいよ」
「えー、まだ飲みたい!」
「顔、赤いよ? 酔ってきてるんじゃないかな」
「酔ってませんー。全然まったくこれっぽっちも酔ってませんー」
「……うん、酔ってるね」
結局、ひめぜんの瓶は取り上げられて、キッチンの上の棚にしまわれてしまった。
ひどい、横暴だ。まだ飲みたかったのに。
飲むー、飲むー、と床にごろごろしていたら、なんだか眠たくなってきた。
「宮? 床で寝ちゃダメだよ」
弘くんの声に、寝っ転がったまま顔をそちらに向ける。
眠いからか、弘くんがぼやけて見える。
「ひろくん」
「ん?」
「えへへー、ひろくんだいすき」
にひゃ、と私は笑って告げた。
弘くんのことが大好き。
それは、ずっとずっと、何年も前から、変わらない気持ちだ。
「……ったく、かわいい酔っ払いだな」
弘くんはそう苦笑すると、軽々と私を抱き上げた。
隣の寝室まで運んでくれて、ベッドに横にさせられる。
寝室は冷房がかかってなくて暑かったけど、私は弘くんから離れたくなくて、首に手を回したままでいた。
「好き。すごく好き。大大大好き」
「はいはい、わかったわかった」
「本当だよ。信じてないでしょ。弘くんが一番で特別なんだよ」
「ちゃんと信じてるよ」
ほんとかなぁ?
ピ、とエアコンの電源を入れる音がする。
涼しい風を感じても、私の中にある熱は下がらない。
「弘くんは、私のこと好き?」
「もちろん。大好きだよ」
ぴったりとくっついているから、声が身体に響く。
好きだって言ってくれた。
そのこと自体は、すごくうれしかった。
だけど。
「……じゃあ、どうして?」
私は顔を上げて、問いかけた。
弘くんは不思議そうな顔をしている。
「宮?」
「好きなら、どうしてなんにもしてくれないの?」
私の質問に、弘くんは焦げ茶色の瞳を丸くした。
付き合って、もう半年が過ぎたのに。
たくさん抱きしめてくれる。キスもしてくれる。
でも、それ以上のことは何もしてくれない。
私には女としての魅力がないんだろうか。弘くんは私とそういうことがしたくないんだろうか。
だんだんと、そんな不安が私の胸のうちに広がっていった。
「話の続きは、起きてからね」
「やだ」
話を切り上げようとする弘くんに、私はぎゅっと抱きつく。
そのせいでベッドに乗りかかるように体勢を崩した弘くんを、私はさらに引っ張る。
ちょうど、弘くんが私を押し倒しているような体勢になった。
首の後ろに回した手で弘くんの後頭部を押す。
顔が近づいていっても、弘くんはたいした抵抗もしなかった。
ちゅ、と最初は軽く口づけて。
それから、唇全部が接するくらい、しっかりとキスをした。
どうすればいいのかなんてわからない。
弘くんよりも前に付き合った人なんていなかったし、ファーストキスだって弘くんだった。
全部、弘くんに教えてもらうつもりでいた。
でも、弘くんが手を出してくれないなら、私からどうにかするしかないじゃないか。
「宮、誘ってるの?」
唇を離すと、弘くんはそう聞いてきた。
ちゃんと伝わったようで安心した。
私がうなずくと、はぁ、と弘くんはため息をこぼす。
「……この程度であおられる自分にがっかりだ」
そう言ったかと思うと、今度は弘くんのほうからキスをしてきた。
唇を食まれて、なめられて。ゆっくりと舌が侵入してくる。
歯の列をなぞるようにしてから、私の舌を探すように口の中でうごめく。
舌を簡単に絡め取られて、ゾクッと何かが背筋を走った。
ただ唇を押しつけるだけだったさっきのとは違う、深い口づけ。
いつも、弘くんとキスをすると、弘くんの好きなように翻弄されてしまう。
今回だって、私のほうから誘ったはずだったのに。
いつのまにかすっかり弘くんのペースだ。
服の上から肌をなぞる手に、ビクッと身体を揺らしてしまった。
最初は優しく、少しずつ大胆に。
ひかえめな胸を揉む手が恥ずかしくて、私はぎゅっと目をつぶる。
そうすると感覚が冴えてくるようで、口づけの音や、触れる手の感触に余計に恥ずかしくなった。
「まったく、宮のせいだからね」
「え?」
何が? と私は首をかしげる。
弘くんはそれには答えずに、私の着ていた服を脱がしにかかった。
あれ、もしかしてこれって、あの、その……。
自分から誘惑したはずだったのに、いまいち覚悟が足りていなかったらしい。
わたわたとしだす私に、弘くんはにっこりと笑いかけてくる。
「安心して。最後まではしないから」
それは安心できるんだろうか。
いや、でも、そもそも私は弘くんに抱かれようとしていて。
最後までしないってことは、結局のところ本懐は遂げられないということで。
「な、なんで?」
「俺なりのけじめ」
よくわからない、とは言うことはできなかった。
弘くんは全然容赦をしてくれなかったから。
やだって言っても聞いてくれなかった。私も本気でやめてほしかったわけじゃないけど。
大きな手に触れられるたびに、そこから熱が広がっていって。
冷房を入れた部屋は涼しいはずなのに、私は熱帯夜らしい暑さに包まれた。
あられのない声をもらして、弘くんの名前を何度も呼んで、弘くんに抱きついて。
弘くんに与えられる快感にただ酔いしれていった。
* * * *
遠くで流れる、一昔前に流行った曲。
それが途切れるのと同時に、聞き覚えのある声がした。
「どうかした? ……白々しいって、お前ね」
……ひろくんの声だ。
意識がだんだんと覚醒していく。
私、寝ていたみたいだ。
「おばさんに言ったとおりだよ。宮、寝ちゃってるんだ。うん、泊まらせるよ」
携帯で誰かと電話をしているようだ。
私のことを話しているんだよね、これ。
弘くんの話し方からして、電話の相手はたぶんお兄ちゃんかな。
そっか、私、お泊りになるんだ。
弘くんはお母さんの信頼を勝ち取ってるから、話をつけるのも楽勝だっただろうなぁ。
私の家と弘くんの家は、三駅ほど離れている。とはいえ、がんばれば自転車で来れる距離。
弘くんは車を持っているから、寝ちゃってても送ることはできなくもなかったりする。
まあでも、お泊りしたほうが無難だよね。
……もろもろの事情を含め。
「ちょっといつもより強めのお酒を飲んだからかな。これくらいなら大丈夫だと思ったんだけど。ああ、うん。これからは気をつける」
ぼんやりとしていた意識もはっきりとしてきて、私は目を開けて弘くんを探した。
弘くんは意外と近くにいた。というよりも私に背を向けて、ベッドの端に座っていた。
「え? 大丈夫だよ。宮もすぐ寝ちゃったし、何もしてない」
……すぐ寝ちゃった? 何もしてない?
私は思わず弘くんの背中をジトーっと見てしまった。
声とかいつもどおりだったんだけど。弘くん、嘘つくのうますぎる。
「はいはい、わかりました。まったくもう、シスコンなんだから」
やっぱり電話の相手はお兄ちゃんみたいだ。
でも、お兄ちゃんがシスコンだなんて、初めて知ったよ。
いっつも妹のことを小馬鹿にするお兄ちゃんが、シスコンなわけがないじゃないか。
「ごめんごめん。じゃあ、切るよ」
そう言って、弘くんは携帯を閉じた。
「おはよう、宮」
そしてすぐに振り返って、私に微笑みかけてきた。
……私が起きてたの、気づいてたんだ。
なんていうか、弘くんには敵わないなぁ。
「……何もしてない、って」
おはよう、とは返さずに、私はそう言いながら身体を起こした。
そもそもまだ朝じゃないしね。時計見るとあれから一時間くらいしか経ってなかったしね。
「本当のことを言ったほうがよかった?」
「そうじゃないけど……」
もごもご、と私は口ごもる。
本当のことなんて言えるわけがない。
あんなエッチなことをしちゃったなんて。
二回くらい、これ以上ないってくらい気持ちよくさせられた。
最後までしないって言葉のとおり、弘くんのほうは最後まで着衣を乱さなかった。
でも、でも、あんなところ舐められるなんて……!
話には聞いたことがあったけど、聞くのと実際にやられるのは全然違うってことを教えられた。
やっぱり、弘くんと私とじゃあ経験値が違いすぎた。
「というか宮、俺としてはおいしい展開だったけど、もう少し警戒心を持たないとダメだよ。男性とお酒を飲むときは、少しでも油断したら食べられると思わなきゃ」
「別に、弘くんになら食べられてもよかったし」
それは本当のことだ。
少し、尻込みしたくなる気持ちがないわけでもないけど。
もし今日最後までしちゃったとしても、私はきっと後悔しなかった。
弘くんのことが好きだから。
この先、弘くんよりも好きな人ができるなんて思えなかったから。
「そういうことを言っちゃうから心配なんだよなぁ。なんだかたぶらかしてる気分」
「たぶらかしてるの?」
「少なくとも、ひめぜんの話をした時点で下心はあったからね」
「……そうなんだ」
ひめぜんの話を聞いたのは一週間前だ。
その時から、弘くんはこうなればいいなって思ってたってこと?
今まで好んで飲んでいたお酒よりも強い、私好みの甘いお酒。
つい飲みすぎて、酔っ払った私と……。
弘くんはそこまで考えていたの?
もしかして私、まんまと罠にはまっちゃった?
でも、不思議と怒りはわいてこない。
だって、相手が弘くんだから。
弘くんになら、私は何をされたっていい。
酔った勢いではあったけど、何もしてくれないことが不安だったのは本当だったし。
むしろ最後までしてくれなかったことがちょっと不満なくらいだ。
「最後まで、はいつしてくれるの?」
だから私は、そう聞いてみた。
ごまかされるかもしれないけど、弘くんにそのつもりがちゃんとあるのか、知りたかった。
私の問いかけに、弘くんはにっこりと笑ってみせた。
「そうだなぁ、まずはご両親にご挨拶にうかがってからかな」
「え!?」
挨拶って、あの挨拶!?
普通に『こんにちは』とかそういう挨拶じゃないよね?
「箱入りの宮に手を出すなら、娘さんを俺にください、くらいは言っておかないとね」
「な、な、何それ!」
私、箱入りだった覚えなんてないんだけど!
大学生になってからは門限もゆるくなったし、弘くんの家にならお泊りも許してもらえるし。
もちろん夜と朝に連絡とかはしなくちゃいけないけど、それくらいは普通だし。
私が箱入りだったら、世の中には箱入り娘だらけになるよ!
「俺にはそれくらいの覚悟はあるよってこと」
弘くんは私をまるごと包み込んじゃうような、やわらかい笑みを浮かべた。
ぽんぽん、と頭をなでる大きな手。
それは、子ども扱いだとずっと思っていたんだけど。
もしかしたら、違っていたのかもしれない。
そんなふうに、私は思った。
『宮ちゃん』
そう、私を呼ぶ声が好きだった。
優しく頭をなでてくれる手が好きだった。
お兄ちゃんなんかよりすごく優しくて、でも少し意地悪なときもある、お兄ちゃんの友だち。
私を呼ぶ声は、私だけに向けられていて。
その時だけは独り占めできたような気がしていた。
子ども扱いされているってわかっていたけど、ずっとずっと好きだった。
でも、もしかしたら。
『宮』と呼ばれるようになったその時から、子ども扱いではなくなっていたのかもしれない。
ちゃんと、恋人扱いをしてもらっていたのかもしれない。