後編 −ひめぜんの誘惑−

 一杯目は、わりとすぐに飲み終わった。
 枝豆をつまみつつ、サーモンとカブの和え物に舌鼓を打ちつつ、二杯目も進んだ。
 三杯目を飲もう、と瓶に手を伸ばしたら、弘くんに止められた。

「もうやめておいたほうがいいよ」
「えー、まだ飲みたい!」
「顔、赤いよ? 酔ってきてるんじゃないかな」
「酔ってませんー。全然まったくこれっぽっちも酔ってませんー」
「……うん、酔ってるね」

 結局、ひめぜんの瓶は取り上げられて、キッチンの上の棚にしまわれてしまった。
 ひどい、横暴だ。まだ飲みたかったのに。
 飲むー、飲むー、と床にごろごろしていたら、なんだか眠たくなってきた。

「宮? 床で寝ちゃダメだよ」

 弘くんの声に、寝っ転がったまま顔をそちらに向ける。
 眠いからか、弘くんがぼやけて見える。

「ひろくん」
「ん?」
「えへへー、ひろくんだいすき」

 にひゃ、と私は笑って告げた。
 弘くんのことが大好き。
 それは、ずっとずっと、何年も前から、変わらない気持ちだ。

「……ったく、かわいい酔っ払いだな」

 弘くんはそう苦笑すると、軽々と私を抱き上げた。
 隣の寝室まで運んでくれて、ベッドに横にさせられる。
 寝室は冷房がかかってなくて暑かったけど、私は弘くんから離れたくなくて、首に手を回したままでいた。

「好き。すごく好き。大大大好き」
「はいはい、わかったわかった」
「本当だよ。信じてないでしょ。弘くんが一番で特別なんだよ」
「ちゃんと信じてるよ」

 ほんとかなぁ?
 ピ、とエアコンの電源を入れる音がする。
 涼しい風を感じても、私の中にある熱は下がらない。

「弘くんは、私のこと好き?」
「もちろん。大好きだよ」

 ぴったりとくっついているから、声が身体に響く。
 好きだって言ってくれた。
 そのこと自体は、すごくうれしかった。
 だけど。

「……じゃあ、どうして?」

 私は顔を上げて、問いかけた。
 弘くんは不思議そうな顔をしている。

「宮?」
「好きなら、どうしてなんにもしてくれないの?」

 私の質問に、弘くんは焦げ茶色の瞳を丸くした。
 付き合って、もう半年が過ぎたのに。
 たくさん抱きしめてくれる。キスもしてくれる。
 でも、それ以上のことは何もしてくれない。
 私には女としての魅力がないんだろうか。弘くんは私とそういうことがしたくないんだろうか。
 だんだんと、そんな不安が私の胸のうちに広がっていった。

「話の続きは、起きてからね」
「やだ」

 話を切り上げようとする弘くんに、私はぎゅっと抱きつく。
 そのせいでベッドに乗りかかるように体勢を崩した弘くんを、私はさらに引っ張る。
 ちょうど、弘くんが私を押し倒しているような体勢になった。
 首の後ろに回した手で弘くんの後頭部を押す。
 顔が近づいていっても、弘くんはたいした抵抗もしなかった。
 ちゅ、と最初は軽く口づけて。
 それから、唇全部が接するくらい、しっかりとキスをした。

 どうすればいいのかなんてわからない。
 弘くんよりも前に付き合った人なんていなかったし、ファーストキスだって弘くんだった。
 全部、弘くんに教えてもらうつもりでいた。
 でも、弘くんが手を出してくれないなら、私からどうにかするしかないじゃないか。

「宮、誘ってるの?」

 唇を離すと、弘くんはそう聞いてきた。
 ちゃんと伝わったようで安心した。
 私がうなずくと、はぁ、と弘くんはため息をこぼす。

「……この程度であおられる自分にがっかりだ」

 そう言ったかと思うと、今度は弘くんのほうからキスをしてきた。
 唇を食まれて、なめられて。ゆっくりと舌が侵入してくる。
 歯の列をなぞるようにしてから、私の舌を探すように口の中でうごめく。
 舌を簡単に絡め取られて、ゾクッと何かが背筋を走った。
 ただ唇を押しつけるだけだったさっきのとは違う、深い口づけ。
 いつも、弘くんとキスをすると、弘くんの好きなように翻弄されてしまう。
 今回だって、私のほうから誘ったはずだったのに。
 いつのまにかすっかり弘くんのペースだ。

 服の上から肌をなぞる手に、ビクッと身体を揺らしてしまった。
 最初は優しく、少しずつ大胆に。
 ひかえめな胸を揉む手が恥ずかしくて、私はぎゅっと目をつぶる。
 そうすると感覚が冴えてくるようで、口づけの音や、触れる手の感触に余計に恥ずかしくなった。

「まったく、宮のせいだからね」
「え?」

 何が? と私は首をかしげる。
 弘くんはそれには答えずに、私の着ていた服を脱がしにかかった。
 あれ、もしかしてこれって、あの、その……。
 自分から誘惑したはずだったのに、いまいち覚悟が足りていなかったらしい。
 わたわたとしだす私に、弘くんはにっこりと笑いかけてくる。

「安心して。最後まではしないから」

 それは安心できるんだろうか。
 いや、でも、そもそも私は弘くんに抱かれようとしていて。
 最後までしないってことは、結局のところ本懐は遂げられないということで。

「な、なんで?」
「俺なりのけじめ」

 よくわからない、とは言うことはできなかった。
 弘くんは全然容赦をしてくれなかったから。
 やだって言っても聞いてくれなかった。私も本気でやめてほしかったわけじゃないけど。
 大きな手に触れられるたびに、そこから熱が広がっていって。
 冷房を入れた部屋は涼しいはずなのに、私は熱帯夜らしい暑さに包まれた。
 あられのない声をもらして、弘くんの名前を何度も呼んで、弘くんに抱きついて。
 弘くんに与えられる快感にただ酔いしれていった。


  * * * *


 遠くで流れる、一昔前に流行った曲。
 それが途切れるのと同時に、聞き覚えのある声がした。

「どうかした? ……白々しいって、お前ね」

 ……ひろくんの声だ。
 意識がだんだんと覚醒していく。
 私、寝ていたみたいだ。

「おばさんに言ったとおりだよ。宮、寝ちゃってるんだ。うん、泊まらせるよ」

 携帯で誰かと電話をしているようだ。
 私のことを話しているんだよね、これ。
 弘くんの話し方からして、電話の相手はたぶんお兄ちゃんかな。
 そっか、私、お泊りになるんだ。
 弘くんはお母さんの信頼を勝ち取ってるから、話をつけるのも楽勝だっただろうなぁ。
 私の家と弘くんの家は、三駅ほど離れている。とはいえ、がんばれば自転車で来れる距離。
 弘くんは車を持っているから、寝ちゃってても送ることはできなくもなかったりする。
 まあでも、お泊りしたほうが無難だよね。
 ……もろもろの事情を含め。

「ちょっといつもより強めのお酒を飲んだからかな。これくらいなら大丈夫だと思ったんだけど。ああ、うん。これからは気をつける」

 ぼんやりとしていた意識もはっきりとしてきて、私は目を開けて弘くんを探した。
 弘くんは意外と近くにいた。というよりも私に背を向けて、ベッドの端に座っていた。

「え? 大丈夫だよ。宮もすぐ寝ちゃったし、何もしてない」

 ……すぐ寝ちゃった? 何もしてない?
 私は思わず弘くんの背中をジトーっと見てしまった。
 声とかいつもどおりだったんだけど。弘くん、嘘つくのうますぎる。

「はいはい、わかりました。まったくもう、シスコンなんだから」

 やっぱり電話の相手はお兄ちゃんみたいだ。
 でも、お兄ちゃんがシスコンだなんて、初めて知ったよ。
 いっつも妹のことを小馬鹿にするお兄ちゃんが、シスコンなわけがないじゃないか。

「ごめんごめん。じゃあ、切るよ」

 そう言って、弘くんは携帯を閉じた。

「おはよう、宮」

 そしてすぐに振り返って、私に微笑みかけてきた。
 ……私が起きてたの、気づいてたんだ。
 なんていうか、弘くんには敵わないなぁ。

「……何もしてない、って」

 おはよう、とは返さずに、私はそう言いながら身体を起こした。
 そもそもまだ朝じゃないしね。時計見るとあれから一時間くらいしか経ってなかったしね。

「本当のことを言ったほうがよかった?」
「そうじゃないけど……」

 もごもご、と私は口ごもる。
 本当のことなんて言えるわけがない。
 あんなエッチなことをしちゃったなんて。
 二回くらい、これ以上ないってくらい気持ちよくさせられた。
 最後までしないって言葉のとおり、弘くんのほうは最後まで着衣を乱さなかった。
 でも、でも、あんなところ舐められるなんて……!
 話には聞いたことがあったけど、聞くのと実際にやられるのは全然違うってことを教えられた。
 やっぱり、弘くんと私とじゃあ経験値が違いすぎた。

「というか宮、俺としてはおいしい展開だったけど、もう少し警戒心を持たないとダメだよ。男性とお酒を飲むときは、少しでも油断したら食べられると思わなきゃ」
「別に、弘くんになら食べられてもよかったし」

 それは本当のことだ。
 少し、尻込みしたくなる気持ちがないわけでもないけど。
 もし今日最後までしちゃったとしても、私はきっと後悔しなかった。
 弘くんのことが好きだから。
 この先、弘くんよりも好きな人ができるなんて思えなかったから。

「そういうことを言っちゃうから心配なんだよなぁ。なんだかたぶらかしてる気分」
「たぶらかしてるの?」
「少なくとも、ひめぜんの話をした時点で下心はあったからね」
「……そうなんだ」

 ひめぜんの話を聞いたのは一週間前だ。
 その時から、弘くんはこうなればいいなって思ってたってこと?
 今まで好んで飲んでいたお酒よりも強い、私好みの甘いお酒。
 つい飲みすぎて、酔っ払った私と……。
 弘くんはそこまで考えていたの?
 もしかして私、まんまと罠にはまっちゃった?

 でも、不思議と怒りはわいてこない。
 だって、相手が弘くんだから。
 弘くんになら、私は何をされたっていい。
 酔った勢いではあったけど、何もしてくれないことが不安だったのは本当だったし。
 むしろ最後までしてくれなかったことがちょっと不満なくらいだ。

「最後まで、はいつしてくれるの?」

 だから私は、そう聞いてみた。
 ごまかされるかもしれないけど、弘くんにそのつもりがちゃんとあるのか、知りたかった。
 私の問いかけに、弘くんはにっこりと笑ってみせた。

「そうだなぁ、まずはご両親にご挨拶にうかがってからかな」
「え!?」

 挨拶って、あの挨拶!?
 普通に『こんにちは』とかそういう挨拶じゃないよね?

「箱入りの宮に手を出すなら、娘さんを俺にください、くらいは言っておかないとね」
「な、な、何それ!」

 私、箱入りだった覚えなんてないんだけど!
 大学生になってからは門限もゆるくなったし、弘くんの家にならお泊りも許してもらえるし。
 もちろん夜と朝に連絡とかはしなくちゃいけないけど、それくらいは普通だし。
 私が箱入りだったら、世の中には箱入り娘だらけになるよ!

「俺にはそれくらいの覚悟はあるよってこと」

 弘くんは私をまるごと包み込んじゃうような、やわらかい笑みを浮かべた。
 ぽんぽん、と頭をなでる大きな手。
 それは、子ども扱いだとずっと思っていたんだけど。
 もしかしたら、違っていたのかもしれない。
 そんなふうに、私は思った。




『宮ちゃん』

 そう、私を呼ぶ声が好きだった。
 優しく頭をなでてくれる手が好きだった。
 お兄ちゃんなんかよりすごく優しくて、でも少し意地悪なときもある、お兄ちゃんの友だち。
 私を呼ぶ声は、私だけに向けられていて。
 その時だけは独り占めできたような気がしていた。
 子ども扱いされているってわかっていたけど、ずっとずっと好きだった。

 でも、もしかしたら。
 『宮』と呼ばれるようになったその時から、子ども扱いではなくなっていたのかもしれない。

 ちゃんと、恋人扱いをしてもらっていたのかもしれない。



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