『宮ちゃん』
そう、私を呼ぶ声が好きだった。
優しく頭をなでてくれる手が好きだった。
ただの子ども扱いだっていうのはわかっていた。
でも、少しだけ、特別だったらいいのに、と思ってしまっていた。
「宮、何飲む?」
「悩んじゃうから、お任せする」
「じゃあ、いつものカルーアミルクでいい?」
「うん、お願い」
「りょーかい。つまみには合わないだろうけどね」
私、笹川宮乃は、現在恋人の家に遊びに来ている。
恋人こと、菅谷弘樹くんは、お兄ちゃんの高校時代からの友だち。
出会ったのは初めて家に遊びに来た時だから、もう十年近く前になる。
五歳も年上だし、格好いいし、友だちの妹だっていう接点しかない、手の届かない存在……だった、半年前までは。
大学一年生のバレンタインデー。毎年密かに想いを込めて贈っていたチョコに、初めて言葉を添えた。
好きです、のたった四文字。その手紙を読んだ弘くんはすぐさま家まで来てくれて、そして『俺も』と返事をくれた。
相手は社会人だし、時間や話が合わないこともあるけど、今のところお付き合いは順調だ、と思う。
六月下旬の私の二十歳の誕生日が過ぎてからは、こうして弘くんの家でお酒を飲む機会もできた。
家に遊びに来れるのも、彼女の特権だよね。
実際は仕事の同僚とかも来たりするのかもしれないけど。
いいんだ、充分幸せだから。
「弘くんは何飲んでるの?」
作ってもらったカルーアミルクをゆっくり飲みながら、私は聞いた。
透明のグラスを覗き込んでみても、中身も透明だからヒントなんてない。
たぶん、日本酒だとは思うんだけど。
首をかしげる私に、弘くんはお酒の瓶を掲げて見せた。
「上善如水。口当たりがよくて好きなんだ」
へえ、おもしろい名前だ。
水のごとしっていうくらいだから、癖が少なくて飲みやすい日本酒なのかな。
「甘い?」
「甘くはないかなぁ」
私の問いかけに、弘くんは苦笑した。
その表情は、なんだか子ども扱いしているみたいで、好きになれなかった。
どうせ、好きなお酒はカルーアミルクとファジーネーブルですよ。
二十歳になってから、親に連れられて居酒屋でいろんなお酒を試したりしたけど。
日本酒ダメ、焼酎ダメ、ウイスキーダメ、辛口ワインダメ、ビールも嫌いというほどじゃないけどおいしいとは思えない。
最終的に、甘くて弱いお酒しか飲めない、ということがわかった。
もうちょっと色々飲めたら楽しいんだろうなぁ。
「弘くんは強いお酒好きだよね」
「弱いのが嫌いってわけじゃないよ。強いのでも癖があると苦手だったりするし」
「ああ、焼酎は嫌いだっけ」
そんなことを前に言っていたような気がする。
こうして一緒にお酒を飲むのも、これで三回目。
弘くんのお酒の好みも少しずつだけどわかってきている。
「うん、基本飲まない。日本酒も好き嫌い激しいしね」
それはわかる気がする。
弘くんは妥協をしない人だ。
それはかたくなってわけでもなくて、できるだけのことをするというか。
だから、弘くんは適当に「なんでもいい」なんて言わない。
自分の好きなものをちゃんと知っていて、選ぶことができる。
そういうところが、格好いいんだよね。
「日本酒が飲めるだけで大人って感じがする」
日本酒って、強いし辛い。
大人で落ち着きのある弘くんにお似合いのお酒だと思う。
……まだまだ子ども扱いされるような私には、似合わないお酒だとも。
「そうかな? 宮が好きそうな甘い日本酒もあるよ」
「へえ、気になる」
甘い日本酒とやらに興味を引かれた。
日本酒が飲めるなら、好きになれるかもしれないなら、試してみたい。
弘くんがおすすめしてくれるなら、思いっきり外れることはなさそうだし。
「じゃあちょっと探してみようかな」
にこ、と弘くんは笑って言ってくれた。
* * * *
そんな話をしたのが、一週間前。
たった一週間で、弘くんは言っていたお酒を用意してしまった。
さすが、デキる男。有言実行は基本だね。
「ほらこれ、この前言ってたやつ。甘い日本酒」
そう言って手渡されたのは、黄緑色の瓶。
パッケージは白くて、灰色で絵と銘柄が書いてある。
「ひめぜん? かわいい名前だねー」
ひらがなの名前の日本酒があるなんて知らなかった。
変なたとえかもしれないけど、お相撲さんみたいな小難しい名前が多いイメージがあった。
こんなとっつきやすい日本酒もあるんだね。
弘くんの物知りっぷりに、また惚れ直しちゃいそうだ。
「とりあえず一番甘い種類を買ってみた。アルコール度数もそんなに高くないよ」
「飲みたい!」
「はいはい、おつまみを用意してからね」
弘くんは瓶を私に持たせたまま、手早くつまみの準備をし始めた。
まずは枝豆を茹でる。きっちり塩を量っているから、味が薄いなんてことにはならないだろう。
次に、買ってきたスモークサーモンを食べやすいサイズに切って、塩もみしたカブと、塩コショウとオリーブオイルで和える。
茹で上がった枝豆を味見してみてから、ザルに上げる。
冷蔵庫に入っていたお高い豆腐をお皿に出して、万能ねぎをハサミで切って乗せ、その上から醤油とごま油。
ここまで十分少々。手慣れてるなぁ。
私は何をしていたのかというと、ビニール袋に入れられたカブを渡されて、塩もみしたくらい。
一人暮らしの弘くんの家は、キッチンがそんなに広くない。
私の家みたいに、手伝いをできるようなスペースはなかった。
まあ、そもそも弘くんにはお手伝いなんて必要なかっただろうけど。
大学生のときから一人暮らしをしているから、料理はもちろん、家事はお手のものらしい。
いいなぁ、一人暮らし。私も大学生なんだし、してみたい。
なんて思いつつ、私はいまだに親に甘えっぱなしの実家暮らしだ。
キッチンは火を使っていることもあって、暑い。
もうそろそろ夏も終わるっていうのに、今日は熱帯夜だ。
室内はエアコンで快適温度に保たれているけど、キッチンはもちろん別。
弘くんもつまみを作りながら何度も汗を拭う仕草をしていた。
せめてもと、少しでも涼しい風が行くように、キッチンと部屋をつなぐ扉は開けたまま。
そのエアコン代を払うのは弘くんなんだけどね。弘くんも文句を言わないから大丈夫なんだと思う。
だから私は料理する恋人をじっと観察することができるというわけだ。
「はい、宮。これ持ってって」
枝豆を手渡されて、テーブルに置く。
サーモンとカブの和え物とお豆腐を持ってきた弘くんは、お行儀悪く足で引き戸を閉めた。
隣に座った弘くんの首筋を流れる汗が目につく。
弘くん、色っぽいなぁ。
惹かれるように、思わず私は手を伸ばした。
「……宮、何やってるの」
弘くんは呆れたような声を出す。
いきなり首をさわられたりしたら、もうちょっとビックリするものだと思うんだけど。
反応がおもしろくない。
「汗、かいてるなって」
「当然でしょ。台所、たぶん三十度近かったよ」
「全部任せちゃってごめんね」
「別にいいよ。だから、手どかして」
言うのと同時に、弘くんは私の手を取って首から離す。
「嫌だった?」
「そうじゃなくて……宮はたまに何を考えているのかわからない」
弘くんは少し困ったように笑う。
特に何も考えていないって言ったら、もっと困るかな。
条件反射みたいに、さわりたくなっただけ。
恋人なんだから、そういうのも許されると思うんだけど。
弘くんとの距離感は、なんだか難しい。
「ほら、飲もうよ。ひめぜん気になるんでしょ?」
気持ちを切り替えるように、弘くんはそう言った。
私はうなずいて、わきに置いておいたひめぜんの瓶を弘くんに渡した。
手酌なんて寂しいからね。弘くんに注いでもらわないと。
私専用のグラスに透明のお酒が注がれていく。
「普通のコップで飲んでいいの?」
「そこまで強くないから、量に気をつければ大丈夫」
今さらな質問に弘くんはそう答えて、グラスに半分くらいの量を入れてくれた。
気をつけた量っていうのが、このくらいなのか。
くんくん、と匂いをかいでみる。
甘い香りがするような、でもちょっと強いお酒の匂いなような。
飲めるのかな、私。
弘くんのグラスにも違うお酒を注ぎ入れる。
今日の弘くんは一ノ蔵。なんでもひめぜんと作っているところが一緒なんだとか。
おそろい、と思うとなんだか照れる。私だけかもしれないけど。
「いただきます!」
気合を入れて、ひめぜんを一口飲んでみる。
のどが焼けるような感覚に、私には強いお酒だ、と思った。
でも。
「甘い! おいしい!」
前に飲んだ日本酒とは全然違う味に、思わず大声を上げてしまった。
ジュースみたいな甘さに驚いた。
もちろん、お酒はお酒だってことはわかっているんだけど。
ちょっと強いけど、好みの味かもしれない。
「それはよかった」
弘くんはグラスをかたむけながら笑う。
やっぱり、弘くんのおすすめに間違いはなかったね。
「弘くん、よく知ってたね、このお酒」
「職場の先輩に飲みに連れて行ってもらったときにね。めずらしいお酒とかは、話のネタになるから」
その先輩って……女の人じゃ、ないよね?
弘くんには弘くんの付き合いがあるんだってわかっているけど、私はまだ学生で、弘くんは社会人。
だから、不安になっちゃったりもする。
弘くんは中途半端なことはしない。だから、大丈夫。
そんなふうに自分に言い聞かせてみても、不安は残ってしまう。
「何を心配してるのか知らないけど、男の先輩だよ」
ぽんぽん、と頭をなでられる。
それだけで感じていた不安は全部どこかに行ってしまった。
そうだよね、弘くんはちゃんと、私のことが好きなんだよね。
私だけじゃ、ないんだよね。
「……知らないなんて、嘘じゃん」
弘くんはなんでもお見通しだ。
私が不安になったりすると、こうしてすくい上げてくれる。
敵わないなぁ、とそのたびに思う。
これが五歳の差なのかな。
「かわいいなぁ、宮は」
ふふっ、と弘くんは笑った。
人よりも少し淡い焦げ茶色の瞳が、優しく私を映している。
そのまなざしは愛しい恋人に向けたものというよりも、小さな子どもに対するようなもの。
この目には覚えがある。
ううん、覚えがあるどころじゃない。
十年近くずっと、私に向けられていた、友だちの妹を見る目だ。
付き合ってからも変わらないそれに、落胆してしまう。
私が想っているほどには、弘くんは私のことが好きなわけじゃないんだ、と思い知らされるようで。
なんだか悔しくなりながら、私はひめぜんをコクリと飲んだ。