茹だるような暑さも、日が傾けば多少は和らぐ。
夏至が過ぎ、七夕が終わり、残暑とはいえ地上を照りつける陽は容赦を知らない。
涼やぎを運んでくれるはずの風すらも生温く。日中は皆が暑さにやられていた。
勝ち気な彼女に似合いの日和だ、と
清司は思った。そんなことを言えば、きっと本人には怒られるのだろうけれど。
今日は、彼女が生まれてからちょうど十五年を数える日。
火の神を祀る一族の直系の娘、
火燐の成人の儀が行われた。
「お疲れ様。成人おめでとう」
火の本家の屋敷の奥にある、彼女の室。清司は御簾を掲げて中へと入った。
お互い成人している身としては、本来は咎められる行為なのだろう。彼女が生まれた頃からの付き合いという気安さと、清司の立場ゆえに、この程度の勝手は許されていた。
室の中央で、火燐は単衣姿で肘置きに体を預けていた。その脱力した様子に、先程までの儀式で相当疲弊したのだということが伝わってきた。
暑さに負けて脱いだと思わしき幾枚かの衣が近くに放られている。注意をすべきなのだろうが、今ここには火燐と清司しかいない。見なかったことにしてやることにした。
「ありがとう。正直、何が変わったのか分からないけれど」
「
小火は変わらなくていいんだよ。周りの反応が、これからは変わるだろうけど」
火燐の言葉に清司は苦笑を浮かべ、すぐ隣に腰を下ろす。
一つ年を重ねただけで、すぐに何かが変わると言うことはないだろう。変わるのは当人ではなく周りの目だ。もう、子供であることを理由に義務から逃れることはできない、というだけのこと。
「名前、もう小火じゃないわ」
「ああ、ごめん。火燐」
呼び方を訂正され、清司はすぐに謝り、改めて彼女の名を口にする。
小火とは火燐の幼名だ。神を祀る五家は、必ず小の字と司る五行にちなんだ字を組み合わせて幼名とする。
そうして、成人すると小を外し、一族の長にもう一文字を貰って実名とする。清司も二年前までは
小清と呼ばれていた。
「酷いわよね、鬼火だなんて。この先一生付き合っていく名前なのに」
燐という、火の一族の長に貰った字のことを言っているのだろう。燐は燐火、すなわち鬼火のことを指している。彼女が気に入らない理由も分からなくはない。
「僕は好きだよ、火燐という名前。君に似合ってる」
清司がそう言うと、火燐は整った形をした眉をつり上げた。
「それは、私が不気味という意味かしら?」
「違うよ。暗闇を照らす光のようだということ」
清司は微笑みを浮かべながら本心のままに告げる。
火燐は気が強く、自己主張が激しい。暗い闇夜の中、自ら光を発する燐火。燐の字を選んだ火の一族の長は、確かに火燐という人間を正しく捉えている。
「……清司って、趣味が悪いわ」
「そうでもないと思うけど」
毒気を抜かれたような顔で悪態をつく火燐に、清司は首を傾げる。
清司は火燐の魅力をよく知っている。可愛らしい面も、尊敬できる面も。それから、あまり褒められない面も、すべて。
きっと、清司以上に火燐のことを理解している人間はいないだろうと言うほどに。
「火の神に愛された火燐。これからも僕を照らしてくれる?」
微かに赤みを帯びた黒髪を撫で、清司は微笑みかける。火燐の頬が鮮やかに色づいていく。視線を下に逸らし、火燐は震える唇を開いた。
「……清司が、それを望むのなら」
しょうがないわね、と。素直ではない火燐は、そう口にした。その言葉に、清司は笑みを深くした。
素直になれない婚約者を、清司は愛おしく思った。
水の一族の直系の清司と、火の一族の直系の火燐。二人は、火燐が生まれたその日から、将来を決められていた。
強すぎる火の力をその身に宿して生まれてきた火燐。彼女の力を抑えるために、相剋である水の力を。火に呑まれぬよう、水の素質の強い者を。力が交わりやすいよう、年の近しい者を。そうして選ばれたのが、当時二歳だった清司だった。
火燐本人の力を制御するため、そして、次代に残す血を安定させるための婚姻。
そうやって五家はこれまでもずっと力を、素質を制御してきたのだった。
* * * *
「よ、清司いるか」
そう、清司の室の御簾を持ち上げて入ってきたのは、狩衣を見苦しくない程度に着崩し、長い髪を無造作に結んで横から前に流した、二十前後の色男だった。
見覚えのありすぎる人物に、清司は溜息をつく。
土の一族の直系たる彼が、事前に報せもなく訪れるなんて。相変わらず、好き勝手にやっているようだ。
「見れば分かるでしょう、
在景殿」
「なんだよ、相変わらず冷たい奴だな。そんなだと婚約者に嫌われるぞ」
「婚約者にはこの上なく優しくしていますので、ご心配なく」
「まったく、その優しさを少しはこっちに向けてくれたって罰は当たらないと思うんだがな」
「在景殿が火燐とのことを茶化さないというのならば考えます」
「無理だな。面白い反応するお前が悪い」
にやり、と在景は人の悪い笑みを見せた。
事あるごとに火燐との仲を揶揄されてきたために、清司は在景のことを一方的に苦手視していた。
悪い人ではない、ということは分かっている。勝手をしているようでいて、やるべきことはきちんとやっている。
成人してまだ二年しか経っていない清司にとっては目標とすべき大人と言ってもいい。性格面では、あまり目標にしたい人ではないけれど。
「……それで、本日はどんなご用件で」
「ああ、いくつか書物を見繕ってもらえないかと思ってな」
清司の趣味は読書だ。文字であれば何でもいい、という側面を持っているため、特にこだわりはなくどんなものでも読んでいる。
そのため、こういった頼み事をされるのはそう珍しいことではなかった。
「子供用の、ですか?」
彼自身が読む本ならば、清司には頼まず自分で選ぶだろう。在景はそういう人間だ。
そう思って尋ねてみると、在景は笑みを深くする。
「話が早くて助かるぜ。できれば恋愛の絡むもので」
「相手は年の離れた男性のお話、でしょう」
在景がわざわざ頼みに来るくらいだ、誰に読ませるのかなど分かり切っていた。それに、彼から同じ頼み事を受けるのはもうこれで三度目になる。
在景の婚約者は、今年で十を数えた。
十歳以上も年の離れた婚約者のために、夢のある恋愛物語を探してほしい。
事実だけを述べればただの優しい婚約者だが、少し考えれば分かる。これは洗脳に近い。
在景に恋をさせるための。婚姻に疑問を持たせぬための。
清司はおもむろに立ち上がり、家にあるほぼすべての本が置かれている書庫へと向かう。その後ろを在景は静かな足取りでついてきた。
「こんな小細工をしなくても心配はないと思いますけどね。
小煌は充分あなたに懐いているようですし」
「念には念を、って言うだろ」
「在景殿……」
あなたはそれでいいのですか、と。清司は告げることはできなかった。
五家の一員として、分かっていたからだ。人の身には過ぎた力を制御するためには、婚姻による血の操作は必要なのだと。
「俺は別に、不満なんざ持ってないぜ。五家に生まれた以上、そんなもんだって思ってる。それに、小煌は可愛いし、あと五年も待てばきっと美人に育つ」
在景の声にも言葉にも、悲観の色はなかった。あるのは、諦めにも似た甘受。狭められた選択肢の中で、自分の望むものを選び取ろうとする強かな意志。彼らしい、と清司は密かに笑みをこぼす。
実は、小煌は火燐の妹だ。勝ち気な性格をそのまま写し取ったような美貌の火燐とは違い、小煌はおっとりとした優しげな相貌をしている。たまに大人びたことを口にする姿すらも愛らしい。在景の言うように、将来は火燐とは種類の違う美人になるだろう。
「というか、お前だって人のことは言えないだろ」
書庫まで来たところで、在景はそう言って清司の頭を小突いてきた。痛くはなかったが少し驚き、清司は振り返る。
在景は、彼には珍しく真剣な表情をしていた。
「家に決められた婚姻って言うなら、お前だって同じ立場だ」
涼やかな声が、胸にすとんと落ちてきた。
そう、清司とて何ら変わりはしない。家の都合による婚約、そして婚姻。そこに己の意志など存在はしなかった。
けれど、清司はそれでも――。
「僕は……幸運とすら思っているから」
そうとだけ返して、清司は要望通りの書物を探すため、書庫の中へと入っていった。
在景という人を、垣間見たような気がした。
在景が今まで二人の仲を揶揄してきたのは、そうすることで反応を見ていたのだろう。
清司が火燐をどう思っているのか。本当に恋慕の情を抱いているのか。清司が、後悔することはないだろうかと。
もし、在景の懸念が的中したとしても、どうすることもできなかったろうが。
今でさえこれだけ世話好きなのなら、数年後に親類となった後はどうなることやら。
本来であれば、火燐は在景の婚約者となるはずだった。
土の一族はここ何十年も、素質の強い者が生まれていない。強い土の力を宿す子を。そのために土を生む火の素質を持つ者を、と。
けれど、火燐は火の素質が強すぎた。土を生むどころか、土を食ってしまうほどに。
そのため清司が火燐の婚約者として選ばれ、火燐の妹が在景の婚約者に選ばれた。
生まれたその瞬間から、火に囚われた火燐。
清司なら彼女を火の呪縛から解放できるなどという、思い上がったことは考えていない。
彼女と共に囚われ続けるのも、一つの幸福だろうと。清司はそう思っていた。
* * * *
火燐が成人したことにより、清司と火燐の婚姻はより現実的なものとなった。婚姻の儀を行うための衣装が作られ始めたのだ。
五家の婚儀は神聖なもの。そのため、纏う衣装には細心の注意が払われる。
決して、穢れなどつかぬように。
だからこれは、夏の陽炎が見せた幻なのだと思いたい。
「清司、いらっしゃい!」
「火燐……」
火の本家の庭で清司を迎えた火燐は、輝かんばかりの真白な衣装を身に纏っていた。
それが何であるのか、聞くのが怖い。聞かなくても予想がついてしまうのが、余計に怖い。
「火燐様! 火燐様ー!!」
そして、家から聞こえてくる悲鳴にも似た呼び声に、予想が外れていないことを教えられ、清司は頭を抱えたくなった。
火燐は、仮縫いされた衣装を着たまま、抜け出したのだろう。
引きずられた裾が、土に汚れていた。
「失礼するよ」
「え? きゃっ……!」
言うが早いか、清司は火燐を抱き抱えた。もう手遅れかもしれないが、これ以上裾が汚れぬようにと。
二つしか年が離れていなくとも、男と女。羽のよう、とまでは行かないまでも、火燐は軽かった。
呆然とした様子の火燐を抱えて歩き、沓を脱いで階を上る。清司が声を上げるよりも先に、女中がこちらへやってきた。
「ああ、火燐様……! 清司様、ありがとうございます」
「気にしないで。それで、どこに向かえばいい?」
「どうぞこちらに」
火燐を抱え直しつつ問えば、女中に奥へと案内される。その後を黙って追っていると、火燐が暴れ始める。ようやく衝撃から立ち直ったようだ。
「ちょ、ちょっと、清司!」
「黙っていて、火燐」
火燐の言葉を遮り、視線で黙らせた。火燐はびくりと肩を震わせ、俯く。
悪いことをしたという自覚はあるのだろう。自覚があるからこそ、始末に負えない。
元の室に戻り、衣装から着替えさせられた火燐を、清司は彼女の室へと送る。大人しくついてくる火燐は、これから何を言われるかと気が気ではないようだ。怯えるくらいなら初めからやらなければいいのに、と思うが、火燐はお転婆ではあるものの馬鹿ではない。なぜあんなことをしたのか、まずは話を聞かなければ。
室へと戻ると、清司は火燐と向き合って座った。小さな手を取って、俯く火燐の顔を覗き込む。
「火燐。僕は怒っているんじゃない、悲しんでいるんだ。あの衣装は幾人もの人の丹精が込められている。僕と火燐の婚姻には火と水の一族の願いが込められている。火燐はそれを土足で踏みにじろうとした」
この婚姻に幸あれかし。
多くの人間の願いが、あの衣装には宿っていた。
婚姻はただの契約ではない。他人である人と人とが、共に同じ時を歩むということ。これが、定められた婚姻であろうとも。二人の不幸を願う者などどこにもいないのだ。
定められているからこそ、せめて幸福であるよう、と誰もが願うのだ。
「分かっているわよ……」
「なら、どうしてあんなことを?」
清司の問いかけに、火燐はゆっくりと顔を上げた。
黒々とした瞳は今にも涙をこぼしそうなほどに潤んでいた。
「私が変人なら、あなたが婚約破棄したって誰も文句を言わないでしょう?」
悲しそうな、すべてを諦めたかのような表情で、火燐はそんなことを言った。およそ火燐には似つかわしくない表情だ。
その顔と言葉で、清司は火燐が何を思ってあんな奇行に走ったのかを理解した。
火燐は、清司に負い目を感じているのだ。
「こんな土壇場で婚約破棄なんてできないよ」
もうすでに多くの人間が、二人の婚姻のために動き出している。今さらその流れを止めることなどできない。
「……そんなの、やってみなければ分からないじゃない」
「火燐は、僕と夫婦になりたくないの?」
是と返ってこないことを知っていて、意地悪な尋ね方をする。
火燐は清司のことが好きだ。そのことには不思議と自信があった。だからこそ、思い悩むのだと、火燐の瞳が語っている。
「だって……私は、清司の足枷になりたくない」
「君を足枷だなんて思ったことはないよ」
「それは、清司が優しいからだわ」
涙を我慢するように、火燐は眉根を寄せる。
その声が震えていることには、彼女自身も気づいているだろう。
「僕は君が思っているほど優しい男じゃない」
そう言って、清司は火燐の手を両手でぎゅっと握る。彼女が本気で抵抗しようとも逃れられない力で。
「火燐がどれだけ僕への負い目に苦しもうとも、僕はこの手を離すつもりはないからね」
物心つく前から言われてきた。彼女を守れ、彼女を導けと。
身の内の火の気が暴れ、倒れた火燐の手を握りながら、願った。彼女を守れる力が欲しいと。
それはそのまま清司の標となり、道となった。
清司の力は火燐のためにある。力だけではない。心も、体も、清司を構成するすべてが、火燐のために存在する。
火燐なしでは、清司は息をすることすらできなくなる。
たとえ、この想いが洗脳なのだとしても構わない。火燐を恋い慕う気持ちは本物なのだから。
「……清司は馬鹿だわ」
「君を得るためなら、いくらでも馬鹿になれるよ」
わざとおどけてみせると、火燐は少しだけ笑ってくれた。
可愛く、綺麗で、酷く臆病な、清司の愛しい人。彼女の笑顔を守りたい、と清司は強く思う。
「結婚しよう。夫婦になろう。喜びも悲しみも全部、二人で分かち合おう」
清司の言葉に、火燐は涙をこぼした。
それは清司の目に、どんな宝玉よりも美しい光を放つ燐火のように映った。
私でいいの? と火燐は涙混じりの声で問うた。
君でなければ駄目なんだよ、と清司は優しく微笑んで答えた。