「まったく、マリアはツメが甘いんだから。言ったよね、ヨセフにかけた術は、僕がこっちの世界に来ることで効力をなくすって。それと一緒。人の脳は始終動いているものだから、暗示なんて定期的にかけ直さないといくらでもほころびが出てくるんだよ」
「え、で、でも、だって、勇者の力で、キリの戸籍とか、色々、そういうのは大丈夫だったのに」
「そりゃあ、一度作ったものは消えないよ。ヨセフの身体だって、過去に治した怪我が復活するわけじゃない」
衝撃が強すぎて、キリの説明の半分も頭に入ってこない。
だって、だって。
これでもたくさん、ちゃんと考えた。
こっちの世界に来たら勇者の力は消えるから、あっちの世界にいるうちに、どうにかしなきゃって。
なのに、私は、失敗していた……?
「幸松夫妻……父さんと母さんに植えつけられた記憶は、定着してる。勇者の力で増やされたものも、消されたものも、元には戻らない。でもマリア、僕の記憶は、『封印』したでしょ? 『消去』するんじゃなくて」
封印と消去の違いなんて、考えなかった。
ただ、消えたら困るから。ちゃんと思い出してほしかったから、封印した。
私にとっては、それだけのことで。
「増やすのも減らすのも、勇者の力じゃ一瞬だけど、封印はずっと封じていないといけない。常時、勇者の力が必要になる。わかるかな。この世界に来た段階で、もうマリアは勇者としての力を失っていて、僕の記憶の封印に力を注ぎ続けることができない。そんな状態が続けば、いったいどうなるのか」
「封印が……解ける……?」
そのとおり、とキリは微笑んだ。
ヨセフさんの面影を残す、穏やかな、私の大好きな笑顔。
「この世界に来て、ふた月がたったくらいだったかな。最初は、ただの夢だと思った。僕は森に囲まれた城にいて、ずっとマリアを待っていた。ずっと、ずっと。そんなにマリアに構ってほしいのかなって、ちょっと悩んだんだけど。そのうちいろんな場面を見るようになって、実感も……わいてきて。この世界に来る直前の記憶も戻ると、さすがに認めるしかなかったよ」
じゃあ、最初のふた月は本当に記憶がない状態だったのか。
少しずつ夢に見るようになって、思い出してきて。
記憶が完全に定着したのは、いつごろだろう?
キリがだんだんとしっかりし始めた時期と、重なっている気がする。
「な、なんで……? もっと早く言ってくれればよかったのに! わ、私、ずっと、キリがこっちの世界になじむのを邪魔しちゃいけないって思って。あんまりでしゃばりすぎないようにしなきゃって思って」
声が震える。
気づいたら、涙がこぼれていた。
「私だけしか覚えてないのがつらくて、悲しくて。自分で決めたことを後悔なんてしてないけど、する資格なんてないけど、忘れさせなければよかったかもって、たくさんたくさん悩んだのに!」
こんなの八つ当たりだってわかってる。怒りたいわけでもなじりたいわけでもない。なのに止まらなかった。
次々と落ちていく涙がのどを伝っても、拭うこともせずにキリを見つめる。
キリだ、キリだ、キリだ。
どうして気づかなかったんだろう。どうして気づけなかったんだろう。
ずっと、ずっと、キリはキリだった。
「……賭け、だったんだ」
するり、とキリの手が私の頬を撫ぜる。
揺れる新緑の瞳が、なつかしくて、うれしくて、せつなくて。
どうしようもないくらい、いとおしい。
「マリアが僕の記憶を封印したのは、正解だったと思う。魔王としての僕は、この世界ではあまりにも異質だった。何も覚えていないことで、なんとか、この世界を受け入れられた。覚えていたらもっとマリアに頼りっきりになっていただろうし、他の人とのつながりなんて作れなかっただろうから」
そう、思ってくれるなら。
勝手に決めて、勝手に行動に移したことも、許されるんだろうか。
怒られても仕方ないと思っていた。嫌われるかもしれないとも思っていた。
私を信じる、と。私に任せる、と。
そう言ってくれたキリの気持ちを、踏みにじる結果にならなかったなら、本当によかった。
「でも。マリアが、どういうつもりで僕の記憶を封印したのか、僕は知らなかった。その封印が、一時的なものなのか、一生のものなのか。条件つきなのか、その条件はなんなのか」
そこでキリは一度言葉を区切って。
ぎゅっと、つないでいた私の手を痛いくらいに握って。
吐息のような声で、続けた。
「マリアが、魔王だった僕との関係を、なかったことにしたかったのかどうか」
「なかったことになんて……できるわけない……」
涙と一緒にこぼれ落ちた本心。
ずっと、そんなことを考えていたの?
なかったことにできないのは、したくないのは、私のほうだったのに。
「キリが、キリだったから、私は勇者になれたのに。キリに、しあわせになってほしかったから、私は……」
全部、全部、キリのためで、キリのおかげで、キリがいたから。
私の行動の理由、全部がキリにつながる。
もう、キリがいないとなんにもできなくなっちゃうんじゃないかって、心配になるくらい。
私の中心に、キリがいる。
「……うん。マリアが、僕のしあわせのことを一番に考えてくれているのは、わかってた。ただ……僕のね、こっちの世界でのしあわせの中に、マリア自身を入れてくれているのかどうかがわからなかった」
ぱちり、と目をまたたかせる。その拍子に最後の涙がひと粒流れ落ちていく。
キリのしあわせの中に、私自身を。
……考えたこともなかった。
私のしあわせの中に、キリは存在していた。ど真ん中に位置していた。
キリがしあわせなら私もしあわせだって思った。だんだんそれだけじゃ満足できくなっていったけれど。
でも、キリのしあわせのためには。
私は傍にいないほうがいいのかもしれないって、そう思う自分が、たしかにいた。
「幸松希理として、何も思い出さずにしあわせに暮らすこと。マリアがそれを望んでいたなら、そうするのが僕なりの恩返しだと思った。あっちの世界にいたときの気持ちは、ひとつとして持ち込まないようにするつもりだった」
キリがそんなふうに考えていたなんて、知らなかった。気づけなかった。
私がキリへの想いを持て余していたとき、キリも同じように、悩んでいたんだ。
なんてバカげたすれ違いだろう。
必要だったかもしれないその過程を、しょうがないで済ませられないくらいには、二人とも、きっと苦しんだ。
「でも、それは、あまりにも悲しい。だって僕は、あっちでマリアにもらった言葉も、想いも、本当は忘れたくなんてなかったから」
そんなの、私だって。
忘れられたら悲しかったよ。早く思い出してほしかったよ。
自業自得だって、自分勝手だって、わかっていても。
「だから……賭けてた。マリアが、何かしらの条件をつけていたなら。いずれ思い出すことを望んでいたなら、そのときは……」
つないでいた手が、解かれる。
寂しくてつなぎ直そうとすると、キリは私の指の間に、指を挟んで。
まるで、祈りを捧げるみたいに。それでいて、恋人同士のように。
きゅっと、絡められた指に力がこもる。
「そのときは、素直になろうって。僕の、一番の願いを、聞いてもらおうって」
「一番の、願い……?」
オウム返しに聞くと、キリは淡い微笑みをこぼす。
ゆっくりとその瞳が、いや、顔が近づいてきて。
呼吸の音が聞こえるほどの距離で、それはささやかれた。
「マリアがほしい」
ドックンと、心臓が宙返りをしたように大きな音を立てた。
「たくさんたくさんマリアを傷つけた。たくさんたくさんマリアにもらってばかりで。今だって、僕は何も持ってないかもしれない。何もマリアに返せないかもしれない」
そんなことない。ぶんぶんと勢いよく首を横に振る。
私のほうこそもらってばかりだった。
あの世界で、キリがいなかったら私は逃げる場所もなく、心が折れていた。帰る方法だって見つけられなかった。私を傷つけた分、いやそれ以上に、キリだって傷ついていた。
「でも、僕にはマリアがいないとだめなんだ。マリアが必要なんだ。マリアは僕のしあわせをあきらめないでくれた。マリアが僕をすくい出してくれた。マリアが、僕に、未来をくれた」
まっすぐ、まっすぐ向けられる言葉に、胸の鼓動が鳴り止まない。
新緑の瞳が深みを増して、私を飲み込もうとしているように見えた。
ずっと、欲しかった熱だ。ずっと、望んでいた想いだ。
「マリアが今も僕のしあわせを一番に願ってくれているなら、僕は、マリアと一緒に、しあわせになりたい」
じわり、と止まったはずの涙がまたにじんできた。
キリのしあわせ。
私は、ずっとずっと、それだけを願っている。
「プロポーズみたい……」
「そのつもりなんだけどな」
「まだ、高校生なのに」
「世間一般的な高校生とは違う人生を歩んでいるからね」
たしかに、十五歳まで魔王をしていた高校生なんてキリ以外には存在しないだろう。
十年もの間、勇者に殺してもらうことだけが希望だった。そんな深い絶望を知るキリが、こうやって未来を語ってくれることが、私はうれしくて仕方ない。
答えても、応えても、いいんだろうか。
絡んだ指に、私も、力を込めた。
「私は……」
何を言えばいいのかもわからないまま、私は口を開いていた。
「キリが、こっちの世界になじんでいくのを見てて、ずっと、寂しかった。あっちにいたときと違うんだって。キリはいくらでも、私以外に大切なものを作れるんだって。私はもう、キリにとって必要な存在じゃないんだって。そう思って、苦しかった」
「うん」
「キリの成長を邪魔しちゃいそうな自分がいて怖かった。キリのために離れなきゃって、でも離れられなくて、近所のお姉さんでもいいから傍にいたいって。そんなんじゃ全然満足できないくせに」
「うん」
「早く思い出してほしくて、でももし、勝手なことをした私を嫌いになったらって、それも怖かった」
「うん」
「キリは私のこと、聖母マリアみたいに思ってるかもしれないけど、全然、そんな、きれいな気持ちなんかじゃなかったんだよ」
今までずっと言葉にできなかった思いが、望みが、不安が、恐怖が、堰を切ったように吐き出されていく。
ああ、これは懺悔だ。
キリを救った勇者じゃない。ただのマリアがため込んだ、濃厚な毒。
「キリは私のものじゃないのに、独占欲でいっぱいで、やになるくらいで」
「マリアになら独占されたい」
「私、ヤキモチ焼きだよ」
「いいね、いっぱい妬いてほしい」
「ちょっとしたことですぐ怒ったりするし」
「どうでもいいことでケンカして、仲直りのキスとかしてみたいな」
「れ、恋愛経験ないから、そういうの、慣れてないよ」
「大丈夫。僕もゼロだから、一緒に少しずつ進んでいこう」
絡まった毛糸を指先で丁寧にほどいていくように、私の不安をひとつひとつ、キリは愛情で包み込んでいく。
私を苦しめていた毒を薄めて、あまいあまい薬にしていく。
いつからこんなに、大人になったんだろう。頼りになる存在になっていたんだろう。
もう、私が手を引かなきゃいけない、危なっかしいキリじゃない。
なのにまだ、キリは私を必要だって言ってくれる。私と一緒がいいって言ってくれる。
いいのかな。本当にいいのかな。
この手を、放さなくても、いいのかな。
「私はもう、勇者じゃない、なんの力もない、ただのわがままな村人Aだよ」
「マリアは僕をしあわせにしてくれる魔法を使うことができるんだよ。それさえあれば、充分だ」
ああ、それなら知ってる。
何度も何度もキリが私にかけてくれた魔法だ。
なら、いいのかもしれない。
お互いが、お互いに、しあわせな魔法をかけ合えるなら。
私は、この手をあきらめなくて、いいんだ。
「どうすればいいの?」
「好きって、言って」
かすれた声には、切願の響きがあった。
なんだ、そんな簡単なこと。
魔法の呪文は、とても単純で、やさしくて、心があたたかくなる韻。
「……キリが好き」
韻を、力に。
私の言葉がキリの力になるなら。
願いを、現実に。
ずっとずっと二人がしあわせでいられるように。
勇者でなくても使える、唯一の魔法。
「僕のマリア。一緒にしあわせになってくれる?」
ほら、魔法が返ってきた。
心から全身に広がっていく、しあわせの実感。
何度もうなずく私に、向けられる優しい新緑の瞳。
生命の色。希望の色。私にとって唯一無二の、失えない輝き。
「キリのしあわせを、一番近くで見ていたいって。その権利が欲しいって、ずっと思ってた」
声が震えそうになるのを、なんとか抑える。
願ってもいいのか、迷っていた願い。
叶わなくても仕方ないと、あきらめていた願い。
キリは、私がすくい出してくれたんだって言ったけど。
今、手を差し伸べてくれたのは、キリのほう。
「抱きしめてもいいかな」
ずっと前にも同じことを言われた気がして、私は苦笑する。
返事なんて待たないでよ。
まどろっこしくて、私のほうから抱きついてやった。
しっかりと私を抱きとめるキリは、以前よりもずっとがっしりとしていて。
男の人、だった。
「……どうしよう、マリア。僕、今のほうが魔王らしいかもしれない」
「どういうこと?」
キリの腕の中、私は彼を見上げる。
夜の闇でも色を失わない、陽を浴びて輝く葉の色が、とろりと蕩けていて。
「世界を手に入れた気分だよ」
なんとも魔王らしい言葉を、口にした。