いつの間にか、少女の目の前には男がいた。
岩に腰掛け、遠くを眺める、これといって特徴のない風貌の男。
男の視線の先には、周りが見えないほどに濃い霧がたゆたっているだけだった。
「あがなえるだけの夢はあがなった。だけれども、ねえ」
そう言って、男はため息をついた。
少女はただ黙って、男が再び口を開くのを待った。
なぜだか、そうしなければならないような気がした。
「所詮、夢は夢でしかなかったよ。何を犠牲にしたとて手に入るものではなかった」
あがないは、購い。
代償を払い望むものを手に入れるということ。
けれど、いくら代償を差し出したところで、望むものすべてが手に入るということはありえない。
男が言いたいのはそういうことなのだろう。
夢とはえてして、掴み取り難いものだ。
「君にも夢はあるのかい? よければ言い値で買ってあげようか。叶わぬ夢はほろ苦く、酷く甘美な味がするからね」
男は初めてこちらに視線を向け、謎めいた微笑みを浮かべる。
それは、すべてに疲れ、すべてをあきらめた者の微笑みのように、少女には見えた。
なぜだろうか。そんな顔をしてほしくない、と少女は唐突に思った。
「あなたの夢はなんだったのですか」
少女は初めて、言葉を紡いだ。
予期していなかったのか、少女の問いに男は軽く目を見開き。
それから、嗤ってみせた。
「……もう、忘れたよ。遠い、昔の話だ」
遙か彼方、見えない何かを見やるような目をして、男はうそぶく。
過ぎ去った日々でも思い返しているのかもしれない。
今はまだ子どもと呼ばれる年齢の少女には、男の悲しみも悔いもわかるわけもなく。
ただ、明確な答えが返ってこなかったことを、少しだけ残念に思った。
寂しい瞳の男に、少女は純粋に興味を持っていた。
「君の夢は?」
男は再度こちらに目を向け、今度は優しく問いかけてきた。
孫を見る爺のような瞳、とでも言えばいいのだろうか。
先ほどまでとは、若干雰囲気が違うように思えた。
「私は、お菓子を作る人になりたい」
「それは、とても厳しい夢だと思うよ」
「わかっています」
最初は、お菓子を食べるのが好きだっただけ。
母の作るお菓子で育って、いつからか一緒に作るようになって。
魔法のようだと思っていたお菓子作りが、自分にもできるものなのだと知って。
少しずつその魅力にはまっていった。
やがて、そうすることが当然とばかりに、夢を抱き、この道を選んだ。
「いいや、わかってない。君が思っている以上に、夢を叶えるということは難しいものなのだよ」
厳しい意見に、少女は硬く唇を引き結ぶ。
たしかに、少女はまだ子どもで。ぎりぎり、結婚もできない年齢で。
男の言うように、現実が見えていないのかもしれない。
けれど。
「それでも……あきらめたくないんです」
人の忠告で、簡単にあきらめられるような気持ちではなかった。
所詮、夢は夢でしかなかった、などと。
男のようなことは言いたくない。
あがないが必要ならばいくらでも。
おしゃれだろうと、遊ぶ時間だろうと、代償に差し出してみせる。
やるべきことをすべてやって、それでも夢に手が届かなかったのなら。
思い悩むとしたら、それからだ。
少女は、悔やみたくない。
「なれば私は見届けよう。君の夢の行く末を。君は君のやりたいようにするといい」
男はおもむろに立ち上がった。
少女は初めて、男が見上げるほどに背が高いことを知る。
不思議と、大きな男を怖いとは思わなかった。
ただ、その腕に包み込まれたら、きっととても安心できるのだろうと。
そんな脈絡のない考えが、ふと頭をよぎった。
「夢に挫折した時、君の夢は私のものになるよ。ふふふ、今から楽しみだ」
男はくぐもった笑い声を上げて、少女を見下ろす。
普通なら腹を立ててもおかしくない言葉だというのに、なぜか少女は心が軽くなっていくのを感じた。
がんばれ。君ならできるよ。そう言われるよりもずっと、応援されているように思えた。
それは、男の声がとてもあたたかなものだったからかもしれない。
少女が自然と笑い返すと、男は少女の頭を優しくなでてくれた。
そのぬくもりに、胸に去来した感情を把握する寸前。
男は、目の前から消えていた。
いや……正確には、目が覚めた。
起き上がると、そこはいつもの少女の自室だった。
ピンクベージュの布団カバー。枕元にあるぬいぐるみ。机の上にはやりかけの宿題。昨日の夜寝る前と何も変わっていない。
低速な思考回路で、ぼんやりと今見た夢を思い返す。
夢に敗れた男は、間違いなく夢であるだろうに、ただの夢とも思えなかった。
あの男は、きっとどこかに存在している。
ただの妄想でしかないかもしれないが、少女はそんな気がした。
もしかすると、彼は気まぐれな悪魔だったのかもしれない。
少女の夢を奪おうと、夢に紛れ込んだのかもしれない。
そして気まぐれ故に、少女を応援しようという気になったのかもしれない。
などと言ったところで、きっと誰も信じてはくれないのだろうけれど。
また会えるだろうか、なんて考えてしまうくらいには、男は少女の心に何かを残していったようだ。
そうして、十年ほどの時が過ぎて。
寂しい瞳の男のことをほとんど思い出さなくなっていたころ。
彼女の作ったケーキを食べに、男が店にやってくることを、今の少女は知らない。