二百年に一度、魔王が異界から訪れる。
人々を恐怖に陥れる魔王を倒すために、聖剣に選ばれし勇者が立ち上がる。
勇者に聖剣を授けるのは、王家の血を引く聖女。
これは、いつかの時代の勇者と聖女のお話。
初めて彼女の姿を王宮で見たとき、まさか聖女だなんて思いもしなかった。
魔王城へと向かっている足を止め、二歩後ろをついてくる君を振り返ったとき、なぜか一年ほど前の記憶がよみがえった。
特注らしい白いローブは、どう見ても魔術師の着るもので。
小さな背にあどけない顔立ち。新米魔術師にしか見えなかった。
まあ、魔術師っていうところは間違ってはいなかったわけだけど。
まさか王宮魔術師長で、しかも聖女でもあったなんて、世界は不思議に満ちている。
子どものような、というよりも実際成人したばかりでまだ子どもと呼んでもおかしくない年の彼女。
その実力は、この一年一緒に旅をしてきた僕が一番よく知っている。
聖女としても、魔術師としても、超一級。
まあ、聖女としては比べる対象が歴史の中だから、僕が勝手にそう思っているだけだったりもする。
戦闘能力は高くても、中身がダメダメな僕には、もったいない相方。
彼女のほうがいくつも年下なのに、何度も何度も助けられてきた。
そんな君に、僕はたまに猛烈に甘えたくなってしまう。
ちょうど、今がそうであるように。
「このまま一緒に逃げちゃおうか」
冗談めかして、僕は言った。
本音が混じっていることに、気づかれなければいいんだけれど。
そうもいかないのかな。
君は、とても敏い子だから。
魔王城へと向かう足が震えていることにすら、気づかれているかもしれない。
戦いが、怖い、だなんて。
今さら何を言っているんだって感じだろう。
こんな弱音、できることなら最後まで彼女には隠しておきたかったのに。
蓄積した不安と恐怖に、僕の弱い心が、ひっきりなしに悲鳴を上げていて。
もう、限界なんだ。
「逃げませんよ」
大きな闇色の瞳で、まっすぐ僕を見上げて、君ははっきりとした声で告げる。
精巧な人形みたいに表情の変わらない顔。
けれど瞳は爛々と、決して折れない意志を宿していて。
そんなときじゃないはずなのに、見惚れた。
「今、逃げたら、わたしはわたしを許せなくなるから」
ああ、君は強いな。
役目を放って逃げたくなる僕なんかよりも、ずっとずっと。
悲しくなるほどに、妬ましくなるほどに、強い。
「君は、勝てると思う? 僕たち二人で、魔王に」
その問いかけは、嫌に皮肉げに響いた。
勇者だとか勝手に祭り上げられて、結局はていのいい生贄じゃないか。
魔物には、魔王には、救いが必要。
彼らは、聖剣と聖女によって浄化されることで、この世界へと溶け込むことができる。
彼らを救うために、勇者と聖女は力を合わせて魔王討伐の旅に出る。
そんな綺麗事を言われたって、自分を傷つけようとしてくる赤の他人の魂を積極的に救いたいなんて誰が思うんだ。
こんなこと、彼女に聞かせても意味はないと頭ではわかっている。
聖女であり歴代最年少の王宮魔術師長である彼女は、ただ巻き込まれただけ。
僕たちの戦闘能力についてこれる人がいなかったから、たった二人の旅になってしまった。
王族の彼女にとって、この旅は僕の想像以上につらく厳しいものだっただろう。
彼女が一番不運なのだということはわかっている。
でも、どうしても文句を言いたくなる。
僕はまだ、死にたくない。
「勝てます」
きっぱりと、竹を割るみたいにすぱっとした声で、君は答える。
確証なんてどこにもないと知りつつも、心の奥底で、そう言ってくれることを望んでいたのだと。
涼やかで、けれど熱い君の言葉に、そっと教えられる。
「わたしたちは、負けません。あなたはわたしが生かします。絶対に」
力強い声。折れない意志。
ふわりと風に広がる白いローブの裾が、天使の羽のように見えた。
僕の不安も不満も恐れも怯えも、君の発する熱がすべて魔法のように溶かしていく。
震えが止まらなかった足は、いつのまにかしっかりと地面を踏みしめていた。
ああ、君は本当に、超一流の魔術師だ。どんな魔法も自由自在に使ってしまう。
そして君は本当に、最高の聖女だ。弱くて愚かでどうしようもない僕すら、簡単に救ってしまう。
なぜかはわからないけれど、思わず泣きたくなった。
男泣きなんて格好悪い真似はできないから、必死に我慢したけれど。
そんなことにも、もしかしたら彼女は気づいてしまうのかもしれない。
彼女の闇の色の瞳を、最初は怖いと思っていた。
何を見ているのか、何が見えているのか、まったくわからなくて。
すべてを飲み込んでしまいそうな色に、畏怖の念がわき起こって。
でも彼女は、聖女でありながら、ただの人間でもあった。
一緒に旅をしているうちに、その闇色の瞳に映る感情を読み取れるようになって、距離が近くなったように感じて。
彼女が見ているものを、僕も一緒に見たくなった。
彼女が信じているものを、僕も一緒に信じてみたくなった。
それは神さまだとか、聖剣だとか、そういったものではなくて。
僕たちの、勝利を。
「……頼もしいね」
君のおかげで少し余裕が出てきて、僕はお礼を言う代わりに笑いかけた。
微妙にゆがんでいるかもしれないけれど、それはご愛嬌というものだ。
優しい君はきっと見逃してくれるはず。
君はかすかに、本当にちょっとだけ口端を上げた。
「では、背中は任せたよ、聖女さま」
「いつもどおり、あなたの戦いやすいように戦ってください、勇者さま」
剣の鞘と杖をコツンとぶつけて、笑みを交わした。
君が勝てると言うなら、勝てるような気がしてきたよ。
君はもしかしたら、超一流の魔術師でも、最高の聖女でもなく。
僕にとっての女神なのかもしれない、なんて。
そんなことは恥ずかしくて言えないけれど。
もしかしたら、この戦いが終わったら。
無事に魔王に勝って、すべてに救いをもたらすことができたなら。
僕と結婚してください、とか。
感極まって、本音がこぼれてしまうこともあるかもしれないね。