じゅわわわわ〜、と何かを焼いているような音が聞こえた。
ふわふわふわ〜り、と鼻をかすめたのは卵とバターの芳ばしい香り。
たまらず私はパッチリと目を開ける。
うん、お目覚め爽快。気分も良好。あくびをしながら身体を伸ばせば、どこにも異常がないことがわかる。
ただひとつ、問題があった。
見渡せば丸太が組まれた壁、フローリングとは違う木目そのままの床、天井なんてなくて屋根の骨組みが剥き出しで。
たぶん、こういう建物のことをログハウスって呼ぶんだろう。アウトドアな趣味とかなかったから、中に入ったのは初めてだ。
……で、ここ、どこ?
「お、目ぇ覚めた?」
ビクウウッ、とベッドの上で飛び上がってしまった。
声のしたほうを振り返ると、ベッド脇のパーテーションから顔を覗かせる、二十代前半くらいの男の人。
ただし、金髪茶目。わーヤンキーだー。そのわりにはなぜか緑とオレンジのチェック模様のエプロン姿が妙にさまになってますが。
「だ、だれ。ここどこ」
見知らぬ部屋、見知らぬ人、たった今目覚めた自分。
真っ先に考えたのは、誘拐だ。
最近は物騒な世の中だから、お金持ちだったり美人だったりしなくても被害者になる可能性はいくらでもある。
ただ、それにしてはなんだか、男の人の態度が、のほほんとしているような……。
男の人はパーテーションからこっちに近づきながら、警戒を全面に出す私を安心させるように、にこりと笑った。
「ナダの森ん中の、俺の家」
「ナダ?」
どこそれ。というか森!?
反射的に窓に目を向けてみると、あんまり鮮明じゃない窓の外は、ぼんやり深緑色。
これでも一応都会っ子だから、森なんて近くにはないんだけど……。
実はだいぶ家から遠いところに連れてこられたんだろうか。
最近はログハウス風のお家も増えてるみたいだけど近所では見かけないし。そもそもこの建物は丸太が剥き出しの、キャンプ場にありそうな典型的なログハウスって感じで、若干作りも荒い気がする。
ナダの森なんて聞いたことない。ログハウスを自分の家って言う人は都会ではまだまだ少数だと思う。別荘ならありだけど。
「私、なんでこんなとこにいるの?」
「覚えてないの? 森で倒れてたんだよ」
「え、知らない」
あれ? じゃあこの男の人は誘拐犯じゃなくて、助けてくれた人?
でも、それならどうして私は森で倒れてたんだろう。
自分を見下ろしてみれば、パジャマ姿。ってことは私はいつもどおりに寝たはずだ。
目が覚める前、寝る前、私は何をしていた?
危ない目にあった記憶は……ない、けど……。
「っていうか……」
はっとした。
私は、一番重要なことに、今の今まで気づかずにいた。
ここがどこだとか、どうしてここにいるのかとか。
もちろんそれもすごーく大事なんだけど。
それ以上に、まず根本的に。
「わ、私は、春咲小花であってます……?」
思わず、見ず知らずの人に確認しちゃうくらい、混乱していた。
普通なら当然あるはずの記憶に、大きな大きな穴が開いていることに、気づいてしまったから。
春咲 小花、17歳。
高校2年生、4月生まれ、牡羊座、O型、動物占いは楽天的なトラ。
都会生まれ都会育ち、集合住宅で暮らしていて、校風が大らかなマンモス校に通っていた。
うん、覚えてる、覚えてる。
なのに思い出せない。たとえば家族の顔、友だちの顔、知ってるはずの人たちの名前。
17年の間に、どんなことがあったかっていう記憶も、霧がかかってるみたいにあやふやで。
自分のことが、まるで設定を与えられただけの人形みたいに思えてしまう。
私は本当に、小花っていう名前なのかな? 高校生なのかな? 楽天的なトラであってる?
次から次へと、ハテナが浮かぶばかりで消えていかない。
「んーと、記憶喪失ってやつかな?」
「そう、みたい……」
全部を忘れてるわけじゃない。
自分自身についての過去の記憶は、わりと普通に残っている。
不自然な穴あきの記憶は、逆に違和感を覚えるほどで、記憶喪失という言葉をそのまま肯定していいのかも、私にはわからない。
「小花ちゃん、だっけ。じゃあ、とりあえず俺の知ってる情報を教えてあげる」
優しい声に頭を撫でられたような気持ちになって、私はうなだれていた顔を上げる。
男の人の茶色い瞳が、いたわるような色を宿して私を映している。
この人は、悪い人じゃない。
この人は、優しい人だ。
今の今まで疑っていたのに調子のいい話だけど、理屈じゃなく直感で、私はそう思った。
「今朝、この森で倒れてた君を保護しました。周りには何も異変はなかったけど、たぶん、君は異世界からやってきたんだと思う」
「いせかい……?」
「この島は不思議な力……魔法みたいなもので守られてて、決められた人間しか入れないようになってる。でも君はこの島に入れる条件を満たしていない。とすると、喚ばれた、という可能性しかなくなる。この世界の理から外れた、他の世界からね」
「まほう……このせかいのことわり……」
「大丈夫? 頭ついてこれてる?」
正直、全然、と答えたい。
でも、目覚めがすっきりしていたのもあって、男の人が言いたいことはなんとなく理解してしまった。
「ここ、日本じゃない?」
「うん、違う」
「地球でもない?」
「違うね」
「あなたは、日本人じゃない?」
「残念ながら」
男の人の答えを聞いてすぐ、私はベッドから起き上げる。
気遣わしそうに私を見る男の人の横を通り過ぎて、部屋を仕切るパーテーションも越えて。
この建物の中で一番大きな扉を、押し開く。
見えたのは、木、木、木。鬱蒼と茂る樹木はこの森の深さを教えてくれる。
電線が一本もない空一面に、流曲線が美しい紋様が白く輝いていた。まるで青い布に銀糸で刺繍を施したみたいだ。わぁファンタジー。
男の人の言ったことを全部頭っから信じることは簡単なことじゃなくて、嘘だーって茶化してしまえればどれだけいいか。
なのに、嘘なんかじゃない、ってこの状況が何よりも示している。
「そっか……そっかぁ……」
ここ、異世界なのかぁ。
記憶がないこともあって、全然実感がわかないけど。
ずいぶんと、思っていた以上に遠くへ来てしまったらしい。
どうすれば、いいのかなぁ。
「まあ、そんなに気を落とさないで。とりあえずこれ食べて」
しばらくぼんやりしていた私を席に誘導して、男の人がテーブルの上に置いたのは。
「……ホットケーキ?」
ほかほかと湯気の立つ、丸くて厚みのあるそれ。
見覚えがあるなんてもんじゃない。私の大好物のひとつ。
まったくもう、そういうところはきっちり覚えてるんだから、不思議なもんだ。
「腹が減っては戦はできぬってね。自信作だよ」
たしかにお腹すいてたけど……いいのかな。一応この人のこと、さっきまで疑ってたんだけど。
でも、目の前で微笑む男の人が、私に危害を加えるとは思えない。
それに私、お腹すきすぎると動けなくなるしなぁ。戦をするつもりはないけど、ハラヘリ状態じゃどうしようもないよねぇ。
もういいや、私を助けてくれた親切な人みたいだし、食べちゃおう!
「いただきます」
もぐもぐ。
「……!!!」
う、う、うんま〜〜〜い!!
口いっぱいに広がるバターと卵の風味に、私は酔いしれる。
もぐもぐもぐとしばらく味わって、飲み込んだらすぐにまたもう一口。だんだんそのスピードは上がっていって、最後はかっ込むみたいにホットケーキを食べた。
「そんなにがっつかなくても。でも、うれしいなぁ」
「今まで食べたホットケーキの中でいっちばんおいしいです! どうやってこんな外はカリッと、中はふんわり、厚みもしっかりありながら生焼けにならずに、きれいな焼き目のついたホットケーキが焼けるんですかっ!!」
こんな完璧なホットケーキ、お店でもなかなかありつけないレベルだ。
焼きムラのないおいしそうな茶色は、なんとなく男の人の瞳の色にも近い。
熱弁する私に、男の人はくすくすと笑みをこぼす。
「ずいぶんとホットケーキに詳しいみたいだね」
「パンケーキ類で有名なお店は渡り歩きましたからね……人呼んで食いしん坊小花」
「そのまんまだね」
何がおもしろいのか、男の人はさらに笑う。
笑うっていうか、笑われてるのか、私。
でも別に変なことを言ってるつもりはないんだけどなぁ。
「笑い上戸ですか?」
「いや、こんなに笑ったのは本当に久々だよ」
「えええ……」
嘘っぽい。だってすごく笑顔が似合ってるもん。
よく見ると顔もわりと整ってるよね。クラスにひとりかふたりはいる感じの、親しみやすいイケメン。
異世界の人なのに、なぜかあんまり壁は感じなかった。
日本語で会話できてるからかな。あ、異世界だからたぶん日本語じゃないんだろうけど。
「俺の名前はケイト。よろしくね、小花ちゃん」
「春咲小花です……ってもう知ってますね。よろしくお願いします!」
にっこり笑顔のケイトさんに、私もにへら〜と笑みを返す。
ケイトって、女性みたいな名前だなぁ。どこの国だったかは忘れたけど、外国人女性の名前だったよね?
それとも異世界だと名前の付け方も違うのかな。
「でも、よろしくって……具体的にどうよろしくすればいいんでしょう?」
食べ終わっちゃった空の皿を前に、「ごちそうさまでした」と手を合わせてから、ようやく疑問に思う。
現状、私はケイトさんに拾われた世界単位の迷子で。ケイトさんによろしくしてくれるつもりがある、ってこと?
そもそもこの世界ってどういうところなんだろう。
異世界って言うからには、私が住んでたとこと色々違うんだろうけど。魔法みたいなのがあるみたいだし。
行き場のない人を保護してくれるか、働かせてくれる施設とかはあるのかな?
聞いたらケイトさん教えてくれるかな。何も知らない相手に一から説明なんて面倒をかけてしまうけど、情報がないことには今後の身の振り方も決められない。
どう考えても厄介者っぽい私を拾ってくれて、ご飯まで恵んでくれた親切な人なら、私が知りたいことを気前よく教えてくれるんじゃないかって期待してしまう。
「小花ちゃん、ホットケーキ以外に何か食べたいものある?」
なのに、ケイトさんは質問に質問を返してきた。
食べたいものなんて山ほどありますが何か。
「ええと……今ですか? フレンチトースト、クレームブリュレ、チーズスフレ、ベイクドチーズケーキ、マドレーヌ、プリン、シュークリーム、オムライス、エッグベネディクト、キッシュ、卵サンド、出し巻き卵、お好み焼き、カルボナーラ、卵の天ぷら、卵かけ納豆ご飯」
つらつらと思いつくままに口にしていくと、ケイトさんの笑顔がだんだん苦笑の形になっていく。
「……だいたいわかった。小花ちゃん節操なしに卵料理好きでしょ。あとかなりの食いしん坊だね」
「だからそう言ったじゃないですか。おいしいものは正義です。食欲は世界を救います」
おいしいものを食べたら幸せになれるし、幸せな気持ちになれればたいていのことはなんとかなる。
おいしい、って最大の原動力だよ。少なくとも私にとって。
特に卵は、なんでだかわかんないけど昔っから大好きだ。卵料理に限らず、卵が添え物とか材料のひとつって程度の扱いの料理だって好きなんだから、筋金入りだ。
「じゃあ、君の食べたいもの全部作ってあげるよ。一回じゃ食べきれないだろうから、順番にね」
全部。順番に。
私があげたのは、2日3日で食べきれるような数じゃなかった。どんなにがんばっても1週間はかかるだろう。全部あわせた卵の消費量なんて考えたくないレベル。
だとしたら、ケイトさんのその言葉の意味は。
「……それを食べ終わるまでは、ここにいていい、ってことですか?」
穏やかな笑みを浮かべるケイトさんに、さっき以上の期待を抱いてしまう。
右も左もわからない私を、助けてくれるんじゃないかって。
最初は誘拐犯なんて疑っていたのに、ほんと調子がよすぎるけど、記憶喪失な上にここが異世界だとか言われたら、何をどうすればいいのか検討もつかない。
異世界トリップとか、マンガやラノベなんかでは読んだことあるけど、実際に自分が経験するなんて、きっと誰も思わないだろう。
ひとりも知り合いのいない状況で、親切そうな人が目の前にいたら、縋りつきたくなるってもんだ。
私の期待を、ケイトさんは正確に読み取ってくれたようで。
彼は至極当然とばかりに、うなずいてくれた。
「うん、それまでは面倒見てあげる。記憶喪失の人なんて放り出せないしね」
「あ、ありがとうございます……!」
お礼以外何も言えないくらい、全身が安堵に包まれた。
あああよかった……! 異世界で最初に出会った人が親切な人で本当によかった……!
思わず涙目になった私に、ケイトさんはサラリととんでもない爆弾を落とした。
「というか、記憶喪失じゃなくても最初から面倒見る気だったよ。何しろここ無人島だし」
「え、えええええええええっ!!!?」
春咲 小花、17歳。楽天的なトラ。
どうやら異世界トリップした先は無人島だったらしいです。