ばかでおろかな君と俺

 ただひとつ、願ったのは晴れやかな終わりだった。
 ぬくもりなんていらなかった。まっすぐ見上げてくる瞳も、差し出される手も、向けられる信頼を乗せた笑顔も。
 今さら、何も、望んでなんていなかったはずだった。





 常春のこの島でも照りつける日の光が肌を焼くのは変わらない。
 額に浮かび上がった汗を拭いながら、俺は彼女の気配に顔を上げる。

「ケイトー、水やり終わったよー!」
「ん、ありがと。俺もすぐ戻るよ」

 少し離れたところで声を張り上げる小花ちゃんに、見えてるかはわからないけど笑みを返す。
 ナスに人参に玉ねぎ。とりあえず今日食べる分は確保した。
 家には使いかけのキャベツとカボチャもあったはず。頭の中で素早く献立を組み立てていく。
 だから、反応が遅れた。

「……やっぱり私も手伝う!」
「えっ」

 俺が止める間もなく、小花ちゃんは畑に足を踏み入れて……一歩目で、ものの見事にすっ転んだ。
 たぶん、思っていたよりも土がやわらかかったのが敗因だろう。よく耕してあるから。
 それにしても景気のよすぎる転びっぷりに、俺はこみ上げてくるものを我慢できなかった。
 助け起こして土を払ってあげながらも、くすくすと笑う俺に、小花ちゃんは決まり悪そうに身体を縮こまらせている。

「ご飯より前に、お風呂だね」
「すみません……」

 ちょっと払ったくらいじゃ落ちないくらいには、小花ちゃんは全身土まみれになっていた。
 小花ちゃんがお風呂に入っている間に、服も洗っておかないといけない。
 まったく、小花ちゃんは動けば動くほど俺の仕事を増やす。彼女もそれを自覚しているだろうに、注意力が足りなさすぎる。
 別に魔法できれいにしてあげてもいいんだけど、いまいち小花ちゃんは魔法っていうものに慣れていないから。
 普通に風呂に入ったほうが、汚れが落ちた実感が持てるだろう。

「なんなら一緒に入る?」
「へぁ!? は、入らないよ!!?」
「なんだ、残念」

 ちょっとした冗談なのに、耳まで真っ赤にする小花ちゃんが、ばかっぽくて、かわいい。
 くるくる変わる表情にはひとつも嘘がなくて、子どもみたいなのに、俺の目にはこの上なく魅力的に映る。
 ばかで、おろかで、かわいくて、いとしい。
 この、何の力も持たない、等身大のおんなのこが。
 今、俺を生につなぎ止める、唯一の枷。


  * * * *


「俺と一緒に死んでくれない?」

 名前しか知らない赤の他人の小花ちゃんを、この世界に召喚して、いや、誘拐して。
 一方的にぶつけた要求は、まだ記憶に新しい。
 あのとき俺は、死しか見ていなかった。ただひとつそれだけを望んでいた。

『おいしそうだなぁ。ホットケーキ食べたい』

 まさか、自分を殺そうとするヤツの目を見て、そんなことを思う人間がいるなんて。
 あとになって、あれは俺の茶色の瞳がホットケーキを彷彿とさせたのだとわかったけど。だからって色々とおかしい。
 小花ちゃんは最初から、俺の理解の範疇を超えていた。
 いったいいつぶりかわからない笑みをこぼしながら、俺はちょっとしたゲームを思いついた。

 記憶を操作して、今のやり取りと、元の世界の思い出を忘れさせて。
 俺は彼女を拾ったことにして、しばらく一緒に住んで、食べたいもののリクエストを聞いて。
 そうだな、記憶の封印は、『たまごボーロ』を鍵にして解けることにしよう。
 封印が解けたら、今度こそ一緒に死んでもらおう。
 もちろん、封印が解ける前に俺が飽きたら、その時点でゲームオーバー。
 どっちにしろ最終的に死ぬことには変わりないけど。

 いつでも殺せるんだから、別に今じゃなくってもいい。
 おいしいものをたくさん食べさせて、悔いがなくなってからでいいじゃないか。
 子どもを太らせてから食べる悪い魔女みたいなことを考えた。
 飽きたらいつでもひるがえすことのできる、俺ばかりが楽しい一方的すぎるゲーム。
 ちょっとした気まぐれで、死ぬまでの暇つぶしだったのに。
 少しずつ、少しずつ、彼女の笑顔がまぶしく見えるようになっていったのも。
 少しずつ、少しずつ、残りの時間が息苦しくなっていったのも。
 本当に、想定外だったんだ。



 本来ならこの先何十年も生きるはずだった少女から見れば、短い短い猶予期間。
 俺は3歳児にそうするみたいに、小花ちゃんを甘やかしつくした。
 さすがに小花ちゃんを侮りすぎていたらしく、俺のそういった態度はわかりやすく表に出ていたようだけど。
 そりゃあ、記憶の彼方にいる小花ちゃんは、正真正銘3歳前後だったんだからしょうがない。

 最初に、小花ちゃんへの認識を改めたのは、彼女が熱を出したとき。
 赤い顔に荒い息。夢にうなされて、その口からこぼされたのは「お兄ちゃん」。
 目を覚まして、涙を流しながら、ひとりにしないで、と。さびしい、と。
 俺が直接手を下さなくても、簡単に死んでしまう、よわっちいいきものなんだ、と気づいた。
 俺は、そんなよわいいきものを、自分の都合でさらって、彼女が歩むはずだった人生をめちゃくちゃにして。
 忘れていた感情が、呼び起こされた。それは、罪悪感とかいうものだったんだろう。

「帰せなくて、ごめん」

 ごめんね、俺が道連れを望んだばっかりに。
 でも、今さら帰せない。帰したくない。そのときはそう思った。
 だって、小花ちゃんだって言っていたじゃないか。

『ひとりはさびしい』

 ただそれだけのこと。
 それだけのために、俺は罪もないひとつの命を奪うんだ。



 なのに。

 小花ちゃんが、俺のことを。

 好きだとか、言うから。



――すき、すき、すき。



 合わせた目から、直接伝わってきた、想いの断片。飾らない好意。
 ばかだなぁ、と思った。そのまま告げた。
 愚かしすぎて笑ってしまった。
 自分を殺そうとしている人間のことを、好きになるなんて。
 たしかに俺は、小花ちゃんに優しくしてきた。面倒になったらすぐにでも殺せばいいと思っていたから、それまでは好きなだけ甘やかそうと決めていた。
 そんな俺の考えを知らないんだからしょうがないのかもしれないけれど、だからって。
 小花ちゃんは、ばかで、愚かで、哀れだ。

 まっすぐに、俺に恋心を告げる瞳が。
 記憶の底に沈めた、同じくらい愚かだった自分を思い起こさせた。



――すき、すき、だいすき。

――ケイトが好き。

――うれしい、たのしい、ケイトと一緒にいられてしあわせ。

――どうしたら私の気持ちは伝わるかな。

――ケイトも、私のことを好きになってくれたらいいのに。

――好き。ケイトのことが、すっごく、すき。



 毎日、毎日、注ぎ込まれる、甘やかな毒。
 気が狂うかと思ったのは一度や二度じゃない。
 いつからか俺は、小花ちゃんの瞳をまっすぐ見つめ返せなくなった。
 3秒間だ。3秒、目を合わせなければ、心は読めない。
 見なければいい。聞かなければいい。
 何も、知らないふりをすればいい。
 心を読まなくとも、瞳から言葉から表情から、伝わってくるものに、息が詰まった。

 夜、すやすやと眠る小花ちゃんを見下ろして、何度考えたことだろう。
 このまま、首を絞めて殺してしまえば、と。
 最初は、小花ちゃんにどう思われようと気にならなかった。どんな眼を向けられようと、どんな言葉を投げられようと、殺すのなんて一瞬で済む。
 だから、一緒に死んで、なんて直球で言うことができた。
 今は……どうだろうか。

 俺が加害者だと知ったら、俺がとんでもない嘘つきだと知ったら。
 俺が、自分を殺そうとしているのだと知ったら。
 小花ちゃんは、いったいどんな眼で俺を見るんだろうか。
 驚き? 恐怖? 絶望? それとも……憎悪かな。
 それを見ることが、なぜか、嫌だなって、怖いなって、思うようになってきて。
 なら、何も知らないうちに、殺してしまえば、と。
 細い首に手をかけて、けれど、ほんの少しも力は入らずに。
 何度、そんな夜を過ごしただろう。

 そうしてある日、甘すぎる毒に完全に侵された自分に気づいてしまった。
 ああ、もう俺は小花ちゃんを殺せない、と。
 彼女の輝かしい命が失われる瞬間を、想像できない。
 こんなばかでおろかでまっすぐで、どこまでも、きれいな子。
 俺が連れてってしまうなんて、もったいない。
 そう、思ってしまった。

 ひとりはさびしい。
 だから、小花ちゃんのいた49日間は、さびしくなかった。
 眠りに落ちる直前のまどろみのような、あたたかなひとときをくれた。
 もうそれでいいじゃないか。
 ぬくもりなんていらなかった。願ったのは晴れやかな終わりだった。
 でも、心に宿った熱だけを抱いて、ひとりで死んでいけるなら、きっと充分満足のいく結末だ。
 彼女は、元のあるべき場所に、返してあげよう。



 なんて、心を決めたのに。
 小花ちゃんは本当に、ばかで、おろかで、まっすぐで。
 俺の理解の範疇を超えていて。

「ケイト、好きだよ」

――好きだよ、ケイトが好き。ケイトと一緒にいたい。

 言葉と共に、心を明け渡された。
 せっかく、せっかく俺が、魔の手から逃がしてあげようと思ったのに。
 そうだよ本当は、きれいな感情ばかりじゃなかった。
 必死で抑え込んだはずの卑怯な自分が、ひょっこり顔を出す。
 殺せないなら、とどめてしまえと。不用心で考えなしな小花ちゃんを丸め込むのなんて3歳児を騙すのと同じくらい簡単だ。
 ずっと一緒にいてくれと、そう願えば、きっと小花ちゃんはこの手を離せない。
 わかっていた。わかっていたから、終わらせてあげようと思ったのに。
 そんな、俺にやさしいだけの言葉を、心を、くれるから。

 もう、逃がしてあげられないと、悟った。


  * * * *


「今日はエッグベネディクトっていうものに挑戦してみたんだけど」
「も〜〜〜ケイト最高!!! 好き! あいしてる!!」
「はいはいそれはどうも」

 キラキラとした瞳を向けてくる小花ちゃんに、俺は苦笑するしかない。
 俺を好きだという気持ちに嘘はないだろうけど、こういうタイミングで言われると、どうしても食い意地のほうが気にかかってしまう。
 たぶん、ほぼ、間違いなく。
 小花ちゃんが俺を好きになった理由のひとつは、胃袋なんだろうなぁ、と。
 そんなところも含めて小花ちゃんなんだと、もうあきらめるしかない。

「それにしても、ケイトがすごいのはもちろんだけど、精霊ってすごいね。どうして私たちの世界の食べ物まで知ってるんだろう」

 小花ちゃんは相変わらず精霊が見えないらしい。
 きっと俺は異世界人だからではなく、勇者だったから見えるんだろう。
 そこにどんな意味があるのかは知らないけれど、利用できるものは利用するだけ。
 語りかけてくるというより、つたない感情を直にぶつけてくるばかりの小うるさい精霊のことは、便利なハエくらいに思っていた。

「さあ。よくわからないけど、精霊には世界の違いは関係ないみたいだよ」
「……よくわからないね?」
「だからそう言ったでしょ」

 過去も未来も、この世界も違う世界も、精霊には関係ない。
 きっとどの世界のどの時代にも精霊というものは存在して、きっとそのすべてはどこかしらでつながっているんだろう。
 そういえば、小花ちゃんを元の世界に返そうとしていたとき、精霊たちはいつも以上にうるさかった。
 基本的に俺に好意的な精霊は、小花ちゃんを喚ぶことに反発するどころか、協力してくれたっていうのに。
 もしかしたら、精霊は最初から全部わかっていたのかもしれない。
 小花ちゃんが、死を望んでいた俺を生かす、枷になるのだと。

「ねえケイト、この島を出たらどこに行こっか」
「別にどこでも。小花ちゃんの好きなように」

 ここ最近、小花ちゃんは思い出したように未来を語る。
 最近って言っても、俺が真実を暴露して、小花ちゃんがこの世界にいると決めてから、まだそれほどは経っていない。
 少しずつ、この島を出る準備をしている。
 どっちみち状態保存の魔法をかけるとはいえ、気持ち的な問題で、食材は使いきってしまうように。
 旅に必要な道具は、思いついた端から用意して。
 俺ひとりならともかく、小花ちゃんが一緒ともなれば、万全を期す必要がある。

「私ねぇ、お城見てみたいな。ダンジョンとかもあったりするのかな。魔法の力で浮いた島とかは?」
「あるかもしれないね」

 きっとゲームかマンガかの影響だろう。小花ちゃんは異世界に夢を見すぎだと思う。
 とはいえ、この世界に来たばかりの俺もたしか似たり寄ったりだったことを思えば、あまり人のことは言えない。
 俺が知ってる世界は200年前だから、だいぶ様変わりしていることだろう。昔あったものが、今も存在していると信じるには、年月が経ちすぎている。
 建物も、地形も、国も。今、いったいどうなっているのやら。

「ケイトも一緒に楽しんでね。ケイトは前に見てるものもあるかもしれないけど、200年ぶりなら色々違うだろうし。一緒に観光しようよ」

 パンケーキを切り分けながら、小花ちゃんはずっとにこにこにこにこ。
 何がそんなに楽しいんだろうか。
 自分の故郷を捨てて、家族を捨てて、友人を捨てて。元あった居場所すべてを捨てて。
 一時の気の迷いかもしれない、好きな人を選び取った小花ちゃん。
 後悔、しないだろうか。
 小花ちゃんの笑顔を見ながら、また同じ疑問に思考が流れる。
 彼女に、帰りたいって泣かれたら。
 俺は、どうすればいいんだろうって。

「それでね、すごくいいなぁってところを見つけたら、そこに住んじゃうのもいいと思うんだ。ここもいいところだけど、やっぱり寂しいし」
「小花ちゃんに任せるよ」
「もう、そればっかり! ケイトの人生でもあるんだからね!」

 俺の人生は、小花ちゃんのものだよ。
 なんて、重すぎるとわかってはいるけど、まぎれもない事実だ。
 小花ちゃんを殺せないから。小花ちゃんをひとりにはできないから。それだけを理由にして、変わらず呼吸を続けている。
 君がいるから、俺は生きてる。
 本当の、本当に、俺にとってはそれだけのことなんだ。

「ケイトは何か、行きたいとことか、やりたいこととかないの?」

 くりんっとした大きな瞳が、俺を覗き込む。
 俺がついこの前まで死のうとしていたことを知っているから、小花ちゃんも不安なんだろう。
 小花ちゃんなりに、俺をつなぎ止めようと必死なんだろう。
 あいかわらず、ばかだなぁ。
 小花ちゃんがいるっていうそれだけで、俺はこの世界に、生に縛られるのに。

「そうだな……」

 やりたいこと、か。
 俺はテーブルの向こうに手を伸ばす。
 向かいに座った、小花ちゃんへと。
 お餅みたいな頬に、そっと指をすべらせて。
 大きな黒い瞳が、さらに大きく見開かれるのを、じっくり観察する。

「ケイト……?」

 たとえば、ここで。
 小花ちゃんの全部が欲しいって言ったら、この子はどんな反応をするだろう。
 驚くのか、照れるのか、あわてるのか。
 きっとその全部なんだろう。
 そうしてきっと、許してしまう。前に俺が押し倒したときのように。

「俺は……小花ちゃんについてくよ。小花ちゃんが行きたいところに行って、やりたいことをすればいい。俺は、小花ちゃんと一緒なら、きっとなんだって楽しいから」

 頬から手を離して、微笑みかける。
 もう、俺の仮面は役に立たないだろうから、それは不格好な笑みだったかもしれないけど。
 小花ちゃんはそれ以上に俺の言葉に気を取られたようで、花のように淡く頬を染める。
 彼女は、この島一番の春だ。
 永遠にも近い時間、停滞していた時間を、鮮やかに彩る小さな花。
 きっと小花ちゃんは、この島を出てもきれいに咲き誇ってくれるだろう。
 俺の、隣で。

 ばかだなぁ、と今日も思う。
 どうして俺なんて選んでしまったんだろう。
 彼女が今も隣にいてくれることが、嘘のようで。
 嘘であったほうが、小花ちゃんにとってはずっとよかっただろうにと。
 思うのに、もう、手放せない。
 もっとも、49日を過ぎてしまった今、手放したほうがよっぽど無責任だろうけど。

「じゃあ、とっておきのプランを考えておくね!」

 にっこにこと、春のひだまりのように、小花ちゃんは笑う。
 焼き殺されてしまいそうなほどまぶしくて、思わず目を細める。
 しあわせって、こんな形をしているんだろうか。
 こんな、息が詰まるくらいあたたかくて、やわらかくて、やさしい形をしているんだろうか。
 俺は今日も、ばかだなぁ、と思いながら小花ちゃんに救われる。
 一番のばかは、そんな俺のほうなんだろう。

 これが最後だ、と心に決めて、これ以上ないくらい残酷に裏切られた記憶は、永遠に消えない傷となって残っている。
 信じた自分が愚かなんだと。ぬくもりも、瞳も、手も、笑顔も、もう何も望まないと。
 泣いて過ごした年月を、忘れたわけじゃない。
 なのに性懲りもなく、俺はまた、最後を決めてしまった。
 今度こそ、小花ちゃんが、最後だ。

 君が、俺の、最後の希望だ。



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