その日のうちに顔を合わせたその人は、見るからに痛々しい様子だった。
ちょうど仕事が終わったところではち合わせるあたり、たぶんタイミングを狙っていたんだろう。
小隊長さんは私に向かって、昼はごめんね、と言った。
そのくせ、小隊長さんの顔を見るに、悪いことをしたとは思っていなさそうだった。
まあ私も謝罪よりも気になることがあったから、どうでもいいんだけども。
「……すごいですね、頬。というよりも首から上? や、むしろ全身?」
頬に大きな冷却シートと思わしきものが貼られている。けど、それからはみ出るくらいに肌の色が変わっている範囲が広い。
隊長さん、どんだけ本気で殴ったんですか……。
しかも、倒れたときにぶつけたのか、額なんかにもテープが貼られていたりする。
もしかしたら服の下にも痣やなんかがあるのかもしれない。
「全身だねー。一応受け身は取ったけど、ふっ飛ばされた先が石畳の上だったからね。腕とか腰とか痣になってるよ。見る?」
「見ません」
「まあそう言わずに」
笑顔で近づいてくる小隊長さんを思いっきり睨みつける。
なんで見せたがるんですか。変態なんですか? 露出狂なんですか?
冗談だとわかっていても、昼間のことがあるから警戒度はマックスだ。
「今度は骨の一本は折られますよ」
一歩引いて距離をあけてから、私は言い返す。
私に何かしようとすれば隊長さんが黙っていないのは、さっきのことでよくわかったはずだ。
「かもしれないねぇ。うかつにからかえないな、これからは」
へらりと小隊長さんは笑う。
何がそんなにおもしろいんだか。
かなり痛い思いをしたはずなのに、まったくこりていなさそうに見える。
あれくらいで小隊長さんが態度を改めたら、それはそれでビックリだけど。
「隊長さんの本気、わかりましたか?」
「わかったわかった。嫌ってほどわかった」
私の問いかけに、小隊長さんは軽いノリで答える。
ほんとかなぁ?
小隊長さんはいつものらりくらりとしていて、つかみどころがない。
笑顔の裏で何を考えているのか、あまり頭のよくない私には想像すらつかない。
それでも、言うべきことは言っておかないと、と私はなるべく真剣に見えるよう顔を引きしめる。
「ああいうことはやめてくださいよ。私にも隊長さんにも失礼です」
はっきり、キッパリ、私は言った。
なのに、私の言葉に小隊長さんはにんまりと緑色の瞳を細めた。
なんというか、癪に障る表情だ。
「そうだね、もう試す必要もないから大丈夫だよ」
「いまいち信用できない……」
むー、と私は唇を尖らせる。
どうして小隊長さんの言葉には真実味とか、重みというものが足りないんだろう。
少しは隊長さんを見習えばいいと思う。
隊長さんの信頼性はさすがだよね。どんな荒唐無稽な嘘でも、隊長さんが言ったら信じちゃうかもしれない。
「元々、最終確認のつもりだったんだ。君の言うとおり、隊長はけっこうわかりやすいしね」
「そこから嘘ついてたんですか!? もう小隊長さんの言うことは絶っ対、信じませんから!」
怖い! 腹黒怖いよ!!
小隊長さんは嘘つきキングだ。今決めたもう決めた。
これからは、小隊長さんの言葉は話半分くらいに聞いておいたほうがいいかもしれない。
そうでもしないと、いつ騙されるかわかったもんじゃない。
「あはは。それにしても怖かったなぁ、あの時の隊長。今思い出しても震えが止まらなくなりそうだよ」
「自業自得です」
「まあね。承知の上でのことだったからいいんだけど」
そんな簡単にすませられてしまう小隊長さんもすごいと思う。
承知の上だったとしても、私ならイヤだな。だってものすごーく痛そうだもの。
もちろん、隊長さんが私のことを殴ったりするわけないのはわかってるよ。隊長さんは紳士だもんね。
「まあでも、ちゃんと唇は避けてくれたことは感謝します。正直、私としてはキスくらいならそこまで気にしないんですが、隊長さんは真面目さんでやきもち焼きさんみたいだから」
それだけは、不幸中の幸いというやつかもしれない。
私だって好きな人以外とキスしたいわけじゃないしね。恋人がいるのに他の人とキスするのは、いくら事故だったりしてもよくないことだってことくらいわかってる。
何より隊長さんをあんまり悲しませたくない。傷つけたくない。
といっても、やきもちを焼いてもらえるのはうれしいんだけどね。喜んじゃいけないとわかっていても。
「みたいだねー。さすがにあの一発は効いたよ」
小隊長さんは腫れた頬に手をあてながら苦笑する。
「そんなにしてまで確かめたかったんですか?」
痛そうに変色した頬を見ながら、私は尋ねた。
どうして小隊長さんがそこまでする必要があったんだろう、と思ってしまう。
上司の恋愛事に部下が首を突っ込むのって、どうかと思うんだけど。
それは私の、元の世界での価値観であって、こっちでは事情が違うのかな。
「確かめたかったというより、確かめなきゃいけなかったんだ。隊長の本気具合をね」
小隊長さんはいつもの笑みと少しだけ違う、皮肉を含んだ笑みをこぼす。
それは私に向けられたものなのか、別の何かに向けられたものなのか。
この世界に来てまだ三ヶ月にもならない私には、わからなかった。
「隊長が本気も本気なら、君は隊長の最大の弱点になるんだ。そしたらオレらは隊を挙げて君を守らなきゃいけない。間違っても君が損なわれることのないように」
「……すごいですね、それは」
そんな月並みな感想しか出てこなかった。
恋愛っていうのは、基本は一対一でするもののはずなのに。
第五師団全体が関わってきてしまうなんて、思いもよらなかった。
「隊長の恋人になるってことは、そういうことだよ。本気ってことは、恋人というよりも未来の奥さんなわけだし」
小隊長さんの口から出てきたなじみのない言葉に、私は目をぱちくりとさせた。
未来の、奥さん……。
あれ、いつのまにそういうことになってたの?
「もしかして、考えたことないとか言う? 悪い女だねぇ、君も」
私の呆然とした様子に気づいたんだろう。
小隊長さんはニヤリと人の悪い笑みを見せて、そう言ってきた。
「や、私の世界では、学生結婚ってめずらしかったですし……」
「はいはい言い訳言い訳。ここは君の世界じゃないし、君はもう学生じゃない」
「……おっしゃるとおりでございます」
ぐぬぬ、反論できない。
こちらの世界では……というかこの国では、ほとんどの人間が八歳から五年間、学校に通うらしい。
それからは仕事をしたり、国が運営している上級学校に三年通ったり、軍の運営している軍部学校に三年通ったり。
つまり、私の年齢の人たちはみんな、働いているのが当たり前。
結婚するのに適した年齢も、たぶん日本より若いだろう。もしかしたら二十歳の私は嫁き遅れに近いのかもしれない。
郷に入りては郷に従え、だ。私はこの世界で暮らしていくことになるんだから。
元の世界では考えたこともなかったことを、こちらの世界では意識するようにしないといけないんだ。
「ちゃんと考えときなよ。そんなつもりじゃなかったとか、今さら言っても遅いからね」
小隊長さんの緑色の瞳が、私を見据える。
決断を迫るように。
いつもはちゃらんぽらんで軽そうに見える小隊長さんが、今はまるで別人だ。
表情は、普段とほとんど変わらない笑顔だというのに、空気が違う。
ちゃらんぽらんなのは、私のほうなのかもしれなかった。
覚悟なんて、していたつもりで全然足りていなかったんだから。
「……ご忠告、どうもです」
視線をそらしたら負けな気がして、目を合わせたまま私はそう返す。
そもそも隊長さんが、私をもらってくれる気があるのかどうか、という問題もあるけれど。
それはたぶん、あの真面目で堅物な隊長さんのことだから、ないわけはないんだろうなと思う。
『それもいいな。嫁に来るか?』
想いを通わせた次の日の朝に言われた言葉。
隊長さんはそんなことを冗談で言う人じゃない。
だからあのときの言葉も、口ぶりは軽かったけど、きっと本気だった。
まだ、隊長さんからはっきり言われたわけじゃなくても。
それでも、考えておく必要はあるんだろう。
これから先を、ずっと、隊長さんと歩んでいくのかどうか。
覚悟を、決めないといけないんだろう。