隊長さんの部屋についてからも、しばらくの間、私は隊長さんに抱きつきながら泣いていた。
でも、ずっと泣いていることなんてもちろん不可能で。
だんだん嗚咽は小さくなっていって、今はもう、治まっている。
それでも隊長さんの私を抱きしめる腕が解かれることはなくて、なんだかちょっとばかし居心地が悪くなってきた。
まだ、話さなきゃいけないことはたくさんある。
隊長さんが気づいていることも、気づいていないかもしれないことも、全部。
私の口から話さなきゃ、と思うんだけど、泣いてしまったことが恥ずかしくてなかなか重い口を開けない。
とりあえず離してもらえないかな、と隊長さんを見上げると、ダークブルーの瞳とバッチリ目が合った。
もしや、ずっと、見てたんですかい……?
「もう大丈夫か?」
「は、はい、大丈夫です」
気遣わしげに問いかけられて、ギクシャクしつつも返す。
「目元を冷やさないといけないな」
「え、あ、そのっ」
そう言ってソファーから立ち上がろうとした隊長さんに、私は動揺した。
そんなにしてもらうほどのことじゃない。あんまりこすったりしてないから、明日にはきっと気にならないくらいになっているだろう。
それに、それに。
……今は、ちょっとでも離れるのが、心細くて。
気づいたら、隊長さんの裾をぎゅっとつかんでしまっていた。
離してもらえないかなって、思っていたのは私のほうだったはずなのに。
「ご、ごめんなさい……」
何かを言われるよりも先に謝っておいた。
私を見下ろす呆れたような瞳。その唇からは小さくため息が落とされた。
身を縮まらせた私の頭をぽんぽんとなでて、隊長さんはソファーに座り直す。
少し抵抗すれば簡単に逃げられてしまうほどの力で、肩を抱き寄せられた。
それだけでほっとしてしまう自分は、つくづく現金だと思う。
隊長さんに対して、甘え癖がついちゃってるみたいだなぁ。
「冷気は、あまり得意ではないんだが」
目をつぶれ、と言われて素直に言うとおりにする。
真っ暗な視界が、すぐにさらに暗くなった。隊長さんの手が私の目元を覆ったんだろう。
何をするんだろう? という疑問はすぐに解決した。
ヒヤ〜っとした空気が、隊長さんの手から伝わってきたからだ。
なるほど、魔法ってこんなこともできちゃうんですね。便利便利。
「つめたい……気持ちいいです」
「それならよかった」
思わずつぶやくと、生真面目な声が返ってくる。
隊長さんは、中級レベルまでの魔法しか使えないらしいと前に聞いた。属性とかで得意なものや苦手なもの、できない魔法もたくさんあるんだとか。
それがどれくらいすごいのか、逆にすごくないのかは、この世界の常識を理解できていない私にはよくわからない。
冷気は得意じゃないと言ったのに使えたということは、これは本当に簡単な魔法なんだろう。
こうやって便利に利用できるんだから、私にとっては充分すごいことだ。
そして、それをわざわざ私に使ってくれたことが、うれしくてたまらない。
「ふふっ、隊長さんは本当に私に甘い」
思わずこぼれた笑い声は、どこか自嘲の響きを持ってしまった。
魔法を使うには、魔力を練る必要がある。その魔力を練るためには、集中力が必要で。
つまりは、魔法を使うと、その魔法の威力に応じて、心身に負荷がかかる、らしい。
隊長さんにとってはそんなに難しい魔法じゃないかもしれない。
ほんのちょっと、疲れたような気がするなぁ、ってなる程度かもしれない。
でも、そのちょっとでも、気になってしまう。
私はまた、隊長さんの負担を増やしてしまった、って。
「私は、そんなに優しくされても、隊長さんに返せるものなんてほとんど……ううん、もしかしたら、一つも、ないかもしれません」
目を覆う大きな手に、そっと触れる。
手自体はいつもと同じであたたかいまま、私にぬくもりを伝えてくれる。
この大きな手が、私はすごく、すっごく、大好きで。
つかんで、すがって、離したくなくなってしまう。
私の甘えを許してくれる手だ。私の心も身体も丸ごと包み込んでしまえる手だ。
でも、一方的に甘えて、寄りかかっているだけの関係が、長く続くわけないって、ちゃんと理解している。
私は何か、隊長さんに返せるものがある?
隊長さんは私に何を求めている?
それは、きっと……。
「見返りを求めていない、と言えば嘘になる」
そりゃあそうだろう。
なんの見返りも求めないで他人に優しくできる人なんて、限られてる。
もちろんそれができる人だっていないわけじゃないだろうし、理想なんだろうけど。
見返りを求めての善行が悪だ、とは私は思わない。
私が、この世界で誰かに優しくするとき、自分の居場所を求めているように。
隊長さんだって、私に優しくする理由があるんだろう。
「恋は人を欲張りにすると以前お前は言ったな。俺も、それを実感している」
つむじにかすかな、衝撃と言うのもおかしいくらい小さな衝撃。
触れたのは……隊長さんの唇、だろうか。
「……隊長さん?」
「名前で呼べ」
「ぐ、グレイスさん?」
あっ、しまった。声がひっくり返った。
いまだに、私は隊長さんの名前をちゃんと呼ぶことができずにいる。
隊長さんが強制しないことをいいことに、隊長さん呼びがすっかり定着してしまった。
「……俺がそう言わないと、お前は呼んでくれないな」
「ごめんなさい、慣れなくて」
名前で呼べ、と。
夜、ベッドの上で言われたことが、何度もある。
その時は、理性が飛んでいるからか、私もちゃんと呼ぶことができる。
まあ、喘ぎ声混じりだから、発音とか発声とかちゃんとする必要がないとも言う。
グレイスさん、って名前を呼ぶと、隊長さんはうれしそうにしてくれるから。
できることなら、ベッドの上だけじゃなくて、呼べるようになりたいとも思うんだけど。
なかなか、うまくいかないものなんだ、これが。
「お前が俺の名前を呼ぼうとしないのは、まだこの世界自体に慣れていないからだろう。元いた世界に未練があるから」
「ちっ、違います! 未練とかそんなの……」
その言葉に衝撃を受けて、私は目を覆う手を剥がして隊長さんを見上げた。
隊長さんの瞳は、静かに凪いでいた。
ああ、ごまかせない。嘘なんてつけない。
さすがにもう、これ以上ごまかそうなんて思っていないけれど。
私も、私ですら、気づいていなかったのに。
隊長さん、って私が彼を呼ぶ理由。
この世界に来て、一番最初に出会った人。
一番最初に私に触れて、一番最初に私を暴いて、一番最初に私に優しくしてくれて、一番最初に、私と向き合ってくれた人。
隊長さんだけは名前で呼べなかった。
エルミアさんとかハニーナちゃんは大丈夫。ビリーさんもシャルトルさんも。小隊長さんだって名前で呼ぶ理由がなかっただけで、呼ぼうと思えば普通に名前で呼べるだろう。
隊長さんは……隊長さんだけは、ダメだった。
この世界で、私にとって一番大切で、特別な人。
そんな彼が、グレイスという、日本に住んでいたらなじみのない名前をしていることを、きっと私は心のどこかで認めたくなかったんだ。
隊長さんの指摘は的外れどころか、そういうことだったんだって納得させられてしまうもので。
どこまで隊長さんが私のことを見ていたのか、私のことを理解してくれているのか、わかってしまった。
だったらもう、もう全部、吐き出すしかない。
私が言いたくなかったことも、隊長さんが聞きたくないだろうことだって、全部、包み隠さず。
未練があるから?
そんなの、そんなの……当たり前だ。
「ない、なんて言えるわけないじゃないですか。未練たらたらですよ。だって、生まれ育った場所です。家族がいて、友だちがいて、二十年間を過ごした故郷です。大切な、自分の居場所だったんです」
世間一般的な家庭だった。特に仲が悪いわけでも、すごく仲がいいわけでもなかった。ケンカをすることもあったし、口うるさくて嫌になることもあった。でも、今思うとやっぱり、大切な家族だ。
友だちはたくさんいたけど、その中で親友と呼べるのはどれくらいいたかと聞かれると、答えに困るくらいには広く浅くの付き合いだった。でも、この世界に来てから何度も、友だちとのバカ騒ぎを思い出した。
すごい素敵な場所に住んでいたわけじゃない。観光地でもなければ大都会でもなく、かといって自然豊かな田舎でもなく、何に関しても中途半端だった。でも、家族でよく食べに行ったファミレスや、友だちと喉を痛めるほどに歌いまくったカラオケ。そこには私の今までの、二十年間の思い出が詰まっている。
「急に連れてこられて、はいここがこれからのあなたの居場所です、なんて言われて、納得できるはずありません。どんなにここの人たちが優しくしてくれても。どんなに仲のいい人ができても。どんなに隊長さんが、私を大切にしてくれても。どんなに……私が、隊長さんのことを好きになっても」
隊長さんのことは好き。すごく好き。今まで付き合った誰よりも大好きだ。
でも、元の世界と、私が過ごしてきた二十年間とを天秤にかけることは、できない。
隊長さんのことが好きって気持ちだけで、この世界を選ぶことは……できない。
私はまだ、心の奥底では、この世界で生きていくってことを、納得できていないんだ。
「こちらを選んでほしい、と願うのは、酷なことなんだろうな」
「選択肢なんてないじゃないですか」
「……そうだな」
謝るように、隊長さんは瞳を伏せた。
意外と長い薄い色のまつげを、思わずじーっと見てしまう。
きれいな、人だ。
がっしりとしていて、怖い顔をしていることが多いから、わかりづらいけれど。
きれいで、強くて、責任感があって、優しくて、面倒見がよくて、他にも、他にもたくさん。
私にはもったいないくらい、なんでも持っている人。
そんな人が、私を求めてくれているのに、応えられないのが、つらい。
「故郷のことを忘れてほしいわけじゃない。これまで過ごした時間があるからこその、お前だ。簡単に納得できることではないと、わかっている。今すぐ答えを出す必要はない」
隊長さんの声は優しく、ゆっくりと、まるで私を包み込むように響く。
私がつかんでいた手がそっと離されて、そのまま私の頬に触れた。
子どもをあやすように。けれど恋人を甘やかすように。
この手は、絶対に、私を傷つけない手。
すべてを委ねたくなってしまうほどに、心地いい。
「この世界で、お前の一番の拠り所であれれば、それでいい。だが……」
隊長さんはそこで言葉を区切った。
見上げた瞳には、熱と、罪悪感が浮かんでいた。
「お前自身に、故郷よりも俺の隣を望んでもらいたいと思っているのも、偽らざる事実だ。今のお前には、重荷にしかならないだろうが」
吐息と共に、それは吐き出された。
なるほど、それが隊長さんの『見返り』で、『欲張り』か。
欲求を告げるときにも私を気遣うのが、つくづく隊長さんらしいなぁと思う。
もっと、力ずくで奪ってくれたっていいのに。
私に選択権を与えずに、故郷なんて忘れろ、俺だけを見ろ、って。
そうしてくれれば、私だって楽なのに。
そうしないのが隊長さんの優しさで、ずるさだ。
ああ、でも。
そんな隊長さんだから、好きなんだろうなぁ。
「今は、まだ、無理です。叶わないってわかっていても、帰りたいって気持ちは、たぶん消えません」
「わかっている。いつかは、でいい」
いつかは……いつか。
それは、いつなんだろう。
そんな日は、来るんだろうか。
「そのときまで、一緒にいてくれるんですか?」
問いかけは、不安げな声になってしまった。
あるのかないのかもわからない、そのときを。
隊長さんは待っていてくれるんだろうか。
もういい、って放っぽりだしたりしないで。
何ヶ月、何年、もしかしたら何十年。
私の隣には、変わらず隊長さんがいてくれるって、思ってもいいんだろうか。
「ああ。そのときよりも、もっと先まで、ずっと」
私を安心させるように、微笑みすら浮かべて、隊長さんは言った。
それだけで、心がぽかぽかとあたたまって、私も自然と笑顔になった。
甘えるように隊長さんの胸にすりつくと、大好きな手が頭をなでて、髪を梳いてくれる。
不思議なくらい、心が満たされていた。
何も解決していないはずなのに。隊長さんを生殺し状態にしてしまっているのに。
私ばかりが、しあわせだ。
ずっと、かぁ。
すごくすごく、甘い響きだ。
ずっと、ずっと、隊長さんが傍にいてくれたら。
そうしたら、私は。
あるのかないのかわからない、そのときが。
ほんのちょっとだけ、楽しみになった。