グレイスの回想6 −口には出せない想像−

 サクラが夜中に何度も目を覚ましていたことには、気づいていた。
 気配に敏感なせいで、隣で少し身じろぎされただけでそうと伝わってしまうのだ。
 半分寝ていたようなものだったから俺は問題ないが、サクラは少なくとも四度は起きていただろう。
 ちょうど、夜明けの時分。
 隣からため息が聞こえてきて、俺は声をかけた。
 サクラはこちらを向いて、いつもどおりの挨拶をしてきた。
 笑ってはいるが、少し元気がないように見えた。

 眠れないならと、とりとめのないことを話した。
 軍人にはなれなさそうだと言うサクラに、なる必要はないと答える。
 サクラは適材適所という言葉を覚えたほうがいい。
 女の軍人もいることはいるが、男と比べれば腕力が低いために多くはない。

 もうそろそろ起きようと、ベッドから下りた俺に、サクラは声をかけてきた。
 振り返ると、サクラは不安そうに瞳を揺らしていた。
 敵わない敵に怯える、か弱い少女のような。庇護してくれる人を求める、幼子のような。
 彼女らしくない憂いに満ちた表情に、俺は内心驚いていた。

「今日は、魔物と戦いますか?」

 言葉に迷う様子を見せながら、サクラはそう問いかけてきた。
 そうか、彼女の憂いの原因は、魔物か。
 それはそうだろう、何しろ昨日の今日だ。
 寝つけなかった理由もきっと、同じなのだろう。

「可能性がないとは言えない。おそってくれば、戦うしかない」
「おそってこないといいですね」
「……怖いか?」

 顔色の悪いサクラに、俺は尋ねた。
 いまだに眠る気はあるのか、横になったままのサクラの顔を覗き込む。
 朔月の夜を宿したような、闇色の瞳。
 そこに映っているのは、不安と恐怖と、怯え。
 答えは聞かなくてもわかっていた。

「魔物が、っていうより。隊長さんが怪我をしちゃったりするのは嫌だなぁって」

 サクラは予想していたものとは少しずれた答えをよこしてきた。

「あの赤が、隊長さんの血じゃなくてよかったって、本当にほっとしたんです。だから、怪我をしないでください」

 シャツを染めた赤い血を思い出しているのか、真剣な表情でサクラは言った。
 怪我をするな、と言われるのは初めてかもしれない。死ぬな、と言われたことはいくらでもあったが。
 軍人というものは戦うのが仕事。多少の危険は、多少の怪我はつきものだ。
 サクラも、言いながらもそれが無茶であることは理解しているのかもしれない。
 それでも言わずにいられないというのなら。

「気をつける」

 俺はそう答えることしかできなかった。
 魔物の危険性を知らせることには、成功したと考えていいだろう。
 それを喜べるほど、俺は人でなしではなかったようだ。

 怖い思いをさせた詫びにはならないだろうが、心配する必要はないと伝えた。
 これでも軍人になってから十一年以上、隊長になってからは五年も経っている。
 今さらそこらの魔物に遅れを取ることはない。
 横になっているサクラの前髪をかき上げながら頭をなでる。
 最初の夜のことがあるからと、あまり触れないようにしていたが、今はいいだろう。
 人の体温に安心するということも、あるだろうから。

「へへ、隊長さん優しいなぁ」

 ふにゃり、とサクラは無防備な笑みを見せた。
 子どものように無邪気で危なっかしく、けれど大人らしい考え方も持っていて。
 つつしみがなく眉をひそめてしまうような言動も多いのに、そんなところも憎めない。
 ほだされてきている自分がいることを、薄々自覚していた。



 それから、瞬く間に日は過ぎた。
 サクラは毎日、元気すぎるほどに元気だった。
 ずっと部屋にいるのは退屈だろうに、そんな様子はつゆほども見せない。
 今日はどんな話を読んだのかとか、部屋で何をしていたのかとか、どうでもいいような話を俺に聞かせた。
 話し上手ではあるんだろう。少なくとも聞いていてつまらないと思うことはなかった。
 大して相づちも打たない俺に、よくそんなに話していられるものだ。
 おはようございます、いってらっしゃい、おかえりなさい、おやすみなさい。
 そんなたわいのない挨拶が習慣となったころ。
 使用人たちの帰ってくる日がやってきた。

 その日の朝のサクラは、どこか様子がおかしかった。
 血を見た次の日の朝のように、よく眠れなかったというわけではないようだが。
 ベッドの端に腰かけたまま、ぼんやりと中空を眺めている。

「……どうかしたか?」
「へ? どうもしませんよ」

 声をかけると、サクラは俺を見上げてへにゃりと笑った。
 けれどその笑顔は、違和感を覚えるくらいには、いつもと違っていた。

「お前は嘘が下手だ。無理はするな」

 咎めるようなものにならないよう気をつけながら、静かな声で俺は言った。
 様子がおかしい。笑顔に元気がない。
 何かあったのだと思わせるには充分だ。
 話すだけでも楽になるということはあるから、少しでも憂いを取り除けたらと思った。

「隊長さんには家族がいますか?」

 サクラの口から出てきたのは、問いへの答えではなかった。
 関連性の見えない質問。けれど、まったく関係ないというわけはないだろう。
 問われるままに、家族のことを話した。
 父に弟に妹。王都に置いてきた大切な家族。
 遠く離れていても、寂しいと思ったことはない。自分は責務を背負ってここにいるのだし、定期的に近況を知らせる便りも届いている。
 何より、王都に帰ればそこで家族は待っているのだから。

 そうか、と俺は納得した。
 いきなりサクラが家族の話を聞いてきた理由。
 サクラは精霊の客人。元の世界に帰ることはできない。
 もう一生、家族に会うことはできない。

「寂しいのか?」

 俺の問いかけに、サクラは表情をかたくした。
 指摘されたくなかったことなのだと、それで気づいた。
 言ってしまった言葉は元には戻らない。
 答えなくていい、と告げる前に、サクラは口を開いた。

「そう、みたいです」

 困ったような顔で、どこか泣きそうにも見える顔で。
 サクラは肯定した。
 彼女らしくない、元気のない声。憂う表情。
 見てはいけないものを見ているような気分になった。

「きっと帰れる、と言ったところで気休めにもならないだろうな」

 過去に数百、ひょっとすると千を超える精霊の客人がいたというのに、元の世界に帰った者は誰一人としていなかった。
 精霊の客人は帰れない。それは誰でも知っているような常識だ。
 気休めで嘘をつく気には、なれなかった。
 サクラもそれを望んではいないだろうと思った。

「隊長さんは正直者ですね」
「お前ほどじゃない」

 笑ってみせるサクラに、俺は逆に顔をしかめた。
 表情は、声は、これほどに正直なのに。サクラは自分の感情をごまかそうとする。
 なぜ、笑おうとするんだろうか。
 泣きたいなら泣けばいい。
 無理に笑おうとするほうが、見ていて痛々しい。
 悲しそうな顔は見たくはない。
 けれど、涙を我慢して笑っている顔は、もっと見たくない。

「この世界でも、お前に家族ができればいいんだが」

 それは単なる思いつきだった。
 サクラはどうしたって、この世界で生きていくしかない。
 この世界に根づくなら、いつかは恋人ができ、夫ができ、家族が増えるのではないかと。
 そうなれば、サクラも寂しげな笑みを見せることはなくなるんじゃないかと思った。
 大切な存在ができれば、そいつの傍でなら、サクラも泣けるのかもしれない。
 サクラを思う存分泣かせてやれる存在が、この世界にできたらいい。

「……欲しいなぁ、家族」

 ぽつり、と。願いが小さくこぼされる。
 夜明けの空気に溶けていくような、本当に本当に静やかなつぶやき。
 けれど本心からの願いだと、その声音は告げていた。

「いつかは、できる」

 自らの希望も込めて、俺は断言した。
 子どものように無邪気で無防備で、どこか危なっかしい少女が、この世界で幸せになれるように。
 何か一つでいい。彼女をこの世界につなぎ止めるものがあれば。
 この世界で生きていく理由ができれば、きっとこんな悲しい表情はしなくなるだろうから。

「隊長さんがなってくれますか? 家族に」
「でかい子どもだな」

 冗談にしか聞こえないサクラの言葉に、俺も冗談で答えた。
 サクラが何歳かは知らないが、成人前に作ったことになるのは確実だろう。

「じゃあ奥さんにしてくださいよ」

 サクラはさらりと問題発言をした。
 きっと彼女にそのつもりはなかったんだろう。ただの冗談だとわかっている。
 けれど、うっかり俺は想像してしまった。
 家に帰ると、サクラが笑顔で迎えてくれる。活動的なサクラのことだ、抱きついてくるかもしれない。
 俺に似た子どもを抱いて、幸せそうに俺に笑いかけて。
 特権階級としてのふるまいなど知らないサクラはきっと苦労する。けれど芯の強いサクラなら、やると決めたら努力は怠らないだろう。
 そこまで、ほんの一瞬の間に考えついてしまった。

 広がりすぎた自分の想像に、俺は眉をひそめる。
 たった一週間と少ししか共に過ごしていないというのに、どうしてこれほど細部まで思いついてしまったのか。
 そしてその想像に、違和感を持たなかったのはなぜなのか。
 サクラのことは嫌いではない。守るべき対象だ、とずっと思っていた。
 嫌いではない、どころではないんだろう。きっと俺は、サクラを気に入っている。
 こうして傍にいるのも悪くないと……いや、それどころか心地いいとさえ思い始めている。
 もし、それが一生のこととなったとしたら、と想像してしまうくらいには。

「冗談なのでそんな嫌そうな顔しないでくださいってば」
「いや、……なんでもない」

 嫌なのではなく、色々と考えてしまって困ったことになっただけだ。
 けれど、本当のことなど言えるわけもない。
 まさか、想像の中でお前との間に子どもが生まれていたなどと。
 口が裂けても、言えるわけがなかった。


 その日は一日、俺の隣で幸せそうに笑う少女の幻影が、頭にこびりついて離れなかった。



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