僕はスライムに恋をした

「ルダ、掃除終わった。確認して」

 高く澄んだ声に耳をピンと立て、皿の枚数を検分していた僕は勢いよく振り返る。
 にこっと微笑んで見下ろすと、彼女はなぜか顔をしかめた。

「シェーリなら大丈夫だよ。いつもピカピカじゃない」
「確認するのもルダの仕事、でしょ?」
「真面目だなぁ、シェーリは」

 そういうところも好きだよ、とは、言えなかった。
 仕事中にそんなことを言えば睨まれる、とわかっていたから。
 シェーリは真面目だ。一見そうは見えなくても、少し話せばすぐにわかるほど。
 だからこそこの店の掃除を一任されているわけで。だからこそこうして一緒に働けるわけで。
 彼女が真面目であることで助かっている部分は多いのに、もうちょっと、融通を利かせてくれてもいいのに、と思ってしまうのは、僕が不純な動機を抱えているからだったりする。

 僕の名前はルダ。十六歳の犬の獣人。
 去年から働き始めたバイト先の先輩、シェーリに絶賛片思い中だ。




「シェーリ、お掃除お疲れー」
「ルダもお疲れさま」

 バイトが終わるのは、いつもだいたい夜遅く。
 学校に通いながら働いている僕は、休日以外は昼間に来れないから、どうしても夜のシフトになる。
 シェーリのここでの仕事は、朝早く、昼にみんなが休憩している時間、そして閉店後の三度の掃除だから、自然と終了時刻はかぶる。
 それを狙って夜にシフトを入れているわけでは……ない、とは言いきれない。

「もう上がりだよね? 送ってくよ」
「一人で大丈夫なのに」
「女の子でしょ」

 当然のように言うと、シェーリは押し黙った。
 僕を見上げる目からは、訝しむような雰囲気が漂っている。
 探られても痛くも痒くもない僕は、それにただ微笑みを返す。
 彼女の口が小さく開かれる。ため息の音が聞こえてくるようだった。

「……わたしを女の子扱いするのって、ルダくらいだと思う」

 心底呆れたような、不可思議そうな、そんなつぶやき。
 それは確かに、彼女は性別を意識させるような外見をしていない。
 彼女を見た男の何人が、異性を感じるのか。正確にはわからないしわかりたくもないけれど、決して多くはないことは確実だ。
 でも、そんなのはその他大勢の見解であって、僕の主観はまた別だ。

「女の子だよ、シェーリは」

 きっぱり、僕は言う。気持ちがちゃんと伝わるように。
 じーっと見下ろしていると、シェーリは居心地が悪そうに身体をゆらゆらと揺らした。
 威圧したいわけではないから、と僕はしゃがみこんで視線を合わせる。それでも彼女よりも目線は高い。

「僕にとっては、誰よりも」

 強い声で、強いまなざしで。
 知らぬ存ぜぬができないほどに、僕は気持ちを隠さない。
 遠回しに伝えたところで、気づいてくれるわけがないとわかってからは、好意をそのままぶつけるようにしていた。
 今のところ、色よい返事はもらえていない。反応も、あんまり芳しくない。
 こうして想いを込めた言葉を告げれば、シェーリは決まって困った顔をする。
 顔、とは言っても、目も口も眉も、かろうじて表情の変化が読み取れる程度の、くぼみ。
 肌は透明な液体で、そもそもそれを肌と言っていいのかもわからない。

「……ルダは趣味が悪い」

 そんなふうに、自分を卑下するようなことを、シェーリに片思いしている僕に言う。
 否定してもらいたくて、狙っているわけではないのがタチが悪い。
 ただ、彼女がそう言いたくなる気持ちも、理解できなくはないから困ったところだ。

「スライムに恋しちゃいけない?」

 問いかけに、彼女はまた身体を揺する。
 透明な水色の身体は動きに合わせてわずかに波打つ。
 僕が恋をしたのは、骨も肉も皮膚もなく、ぐにぐにぽてぽてとした半液状の身体を持っている。
 彼女のような種族を、一般的にスライムと呼ぶ。




 遠い昔、スライムはとても凶悪なモンスターだったらしい。
 スライムは身体が粘度の高い液体でできていて、その表層を薄い膜が覆っている。
 内部の液体には、物質を分解して自分の養分へと変換できる、強力な酸が含まれていた。
 薄く透明な膜は簡単に破れるし、簡単に修復もできる。
 その身体の作りを利用して、スライムは敵を内部に取り込み自由を奪い、溶かして自らの一部とすることで最強の名を守ってきた。

 けれど、そんなスライムにも転換期が訪れる。
 ニンゲンが魔法という技術を作り出し、自在に使い始めたのだ。
 スライムは接近戦でしか己の特性を活かせない。身体を伸ばして近づくのにも限度があった。
 魔法が発達していくごとに、スライムはその個体数を減らしていった。
 種を絶やすわけにはいかないと、スライムはニンゲンの手から逃れるように森深くへと移住した。

 やがて、時が流れて。
 スライムは環境に適応するように、身体を変質させていった。
 体内の液体は、だんだんと無害化していった。
 含まれていた強い酸は、意図した場合にしか発生しないように。
 膜は少しだけ丈夫にして、望まぬ事故が起きないように。
 そうしてできあがったのが、今のスライムだ。

 現在では人にまぎれて生活をし、友好関係を築いている。
 ごく一部の、変質しなかった凶暴なスライム種を除き、モンスター指定から除外された。
 理由もなく酸によって人を害せば、人と同じように法によって裁かれる。
 この大陸ではきちんと人権が保障されているから、ニンゲンや獣人、その他多くの種族とまとめて、モンスターとは違う『人』として認められている。

 手も足もないスライムが、どうやって人と一緒に生活しているのか。
 たしかに手はないけれど、実は身体の一部を伸ばして触手にすることができる。
 それは見た目よりも器用に動き、手の代わりをする。
 成熟したスライムなら触手の先を割ることができ、指と同じような働きをする。
 触手なんてものが作れるくらいだから、身体を縦に伸ばしたりもお手の物。
 ニンゲンの身長くらいまでなら触手も届くし、ニンゲンが手を使ってする仕事ならたいていはできる。

 スライム専用の職というものもある。
 お掃除スライムなんて呼ばれているものがその一つだ。
 今では自動に動いてゴミを吸う掃除機なんてものがあったりするが、それのスライム版だ。
 膜を変質させて、テープでほこりを取るようにゴミを体内に取り込み、酸で溶かす。
 触手を使って上のほうのほこりを落としてから行えば、部屋中がきれいになる。しかも、ほんの少しのゴミも出すことなく。殺菌効果なんてものまであるらしい。
 ついでに害虫駆除もしてくれるんだから、大助かりだ。

 シェーリはそんなお掃除スライムの一人。バイトとは違ってちゃんと一人前。
 僕のバイト先以外にも、いくつか掃除場所をかけ持ちしているらしい。一番最後に掃除する場所がここだから、一緒に帰ることができる。
 お掃除スライムはわりと収入は悪くないらしい。ただしその分倍率は高いし、求められる掃除スキルも高い。お掃除スライムの検定試験というものもある。
 検定に合格しているシェーリは、スライムの中でも優秀っていうことだ。さすがシェーリ。

 そして僕がこれだけスライムについて詳しいのも、というか詳しくなったのも、ひとえにシェーリに恋したがゆえだ。
 それまでは他人にも他種族にもそれほど興味なんて持っていなかったし、お金にならない勉強をするなんて時間の無駄だと思っていた。
 でも、シェーリと出会って。シェーリに恋をして。
 彼女のことをもっと知りたいと思った。どうしても振り向いてほしかったから。
 ああ、なんて一途なんだろう。恋は人を変えるとはよく言ったものだ。

 頭と胴体と手足の役割をすべて同じ部分で補ってしまうスライムにどうして、と思わなくもないけれど。
 それを言えば耳も尻尾もないニンゲンに恋をする獣人もいるわけで。
 悩んでいても始まらない、と僕は理由を探すことを放棄した。
 何より、恋をした一番の理由は、僕が一番理解しているんだから、それでいいんだ。




「あのね、本当に、こんなふうに毎回送ってもらわなくてもいいんだからね」

 帰りの道中、僕の話に相づちを打つくらいだったシェーリが、そう切り出した。
 シェーリの借りている部屋はあのバイト先からは少し遠くて、歩いて二十分以上かかる。その上、僕の帰る学院寮と方向が違うので、遠回りになる。
 僕の帰りが遅くなることを気にして毎回断っていることも、もちろん僕は知っている。

「どうしてそんなに遠慮するの? 迷惑?」
「迷惑じゃないけど……」
「心苦しい?」

 シェーリは沈黙した。答えがないことが答えだろう。
 彼女は真面目だ。僕の気持ちをしっかりと受け止めて、悩んでくれている。
 現状、シェーリは僕の想いに応えるつもりがないんだろう。なのにこんなふうに一緒に帰るなんてよくない、と思っている。
 真面目で、優しい。それがシェーリという人。シェーリというスライム。
 そんな彼女だから、僕は余計に心配になってしまう。
 世界は、スライムに対して優しいばかりではないから。

「僕は一緒にいられるだけでいいんだから、利用すればいいんだよ。スライムを狙った誘拐だってあるでしょ?」

 スライムの有効性は、スライムが求められる場は、何も掃除に関してだけではなかった。
 シェーリもそこは理解しているからか、反論してこない。
 もちろん彼女も、自分の身を守るすべはある。スライムが作ることのできる、どんなものでも溶かす酸。それは護身用にはもってこいだ。
 でも、文明の発展した現在では、それを無効化する手立てなんて、魔法以外にもいくらでもあった。
 僕はシェーリとの今の日常を壊したくない。シェーリと会える日々を手放したくない。
 それより何より、スライムを悪用しようとする奴らにシェーリを委ねたくない。

 スライムには、まだ未成年の僕でも伝え聞いたり隠れて見せられたりするくらい一般的な、アダルティーな専門職もあるのだ。
 肉感的な女性にまとわりつくスライムの写真や、動画。大切な部分をその透明な身体を変形させながら隠したり、隠していなかったり。まあ言ってみればエロ本やAVというやつだ。
 その専門職に性別は関係ない。そもそもスライムの性別なんて見た目だとほとんど区別がつかない。大きさが違う、と前に聞いたことはあるけど、並べて見ないかぎりわからない。
 シェーリがそんな職についていたら、僕は彼女とこうして出会うこともなかった。
 だから僕は彼女がスライムであるということで狙われる危険性を無視できなかったし、絶対に守るつもりでいた。獣人は一般的に力が強いから、多少の抑止力はあるはずだ。
 ちなみにそういったエロ本を前に悪友に見せられた時、こんなふうにシェーリが絡みついてくれたらいいのに、と思ってうっかり発情しかけてからは一度も見ていない。

 そういう職に、自ら関わるスライムもいるだろう。調べたところによるとお掃除スライムよりも給金はだいぶいいらしいし。
 そういった職業に偏見があるわけじゃない。いや、まったくないと言うと嘘になるかもしれないけど、あからさまに嫌悪感を覚えるほどじゃない。
 でも、シェーリが今の仕事に誇りを持っていることを知っているし、騙されたり誘拐されたりしてそんな仕事に就くことが幸せなわけがない。
 だから、シェーリだって色々言いつつも結局は僕に送られているんだろう。

「……ルダは、優しいね」

 シェーリがかすかに笑った気がした。
 夜目の利く獣人には夜の闇は障害にならない。
 ただ、問題は人型の僕とスライムのシェーリでは、身長差が尋常ではないということ。
 普通にしているとシェーリの全長は僕の膝よりも低い。シェーリが真上を向かないかぎり、隣を歩いていると僕は彼女の表情を確認することができない。
 だから僕は、持ち前の耳で、シェーリの表情を視る。
 声の高さ、速さ、強弱、そんなものを全部耳で捉えて、記憶する。
 今では彼女の声を聞けば、だいたいどんな表情をしているのか、どんな気持ちでいるのか、わかるようになっていた。

「シェーリが好きだから、シェーリにだけ優しくしてるんだよ」

 本心そのままを告げれば、また、シェーリは押し黙ってしまった。
 優しいのは、シェーリのほうだ。
 僕は彼女に優しいなんて言ってもらえる奴じゃない。
 こうして毎回シェーリを送っているのも、結局は僕がシェーリと一緒にいたいからだ。
 少しでも長い時間を過ごすことで、僕のことを知ってほしい、僕のことを好きになってほしい、という下心もある。
 優しいシェーリでもそのくらいは心得ていると思っていたけど、どうだろうか。

「ルダは優しいよ。……だから、」

 困る、と。
 小さな小さな声で、彼女はつぶやいた。




「ほいよ、ノートサンキュ」

 ぺし、と頭の上にノートが置かれる。顔を上げれば同級生のライガが僕を見下ろしていた。
 ノートを手に取って開けば、食券が二枚挟み込まれている。
 五ページにつき食券一枚、というレートで、僕は同学年相手にノートのコピーを売っていた。
 食券は、校内の食堂やカフェテリア、果ては購買なんかでも使えるために、校内マネーみたいな役割を担っている。食券一枚で食堂の一番安いランチが食べられ、二枚でカフェテリアのケーキセットが食べられる。カフェテリアが割高なのは、基本中流階級以上しか利用しないからだ。
 校内限定とはいえ昼食その他に化ける券。お礼として渡したり、校内イベントの景品になったり、あまり褒められたことではないけど賭け事でも使われる。
 僕がしているみたいに、何かと等価交換で食券を受け取っている奴も少なくはない。

「お前バイトしててこの成績とかマジなんなんだよ、バケモノかよ」
「ケモノではあるけど?」
「ギャグのセンスは最悪だな。なんでもできる完璧超人じゃなくてよかったぜ」

 故郷の吹雪を思わせる冷たい視線に、僕は肩をすくめる。
 ライガはわりとよくノートを買ってくれる同級生で、ニンゲンだけれど種族関係なく僕に接してくれる。
 少しというかだいぶ扱いが雑なところはあるけれど、これでいて情に厚いところがあると知っているので、彼との会話はわりと嫌いじゃなかった。

「完璧超人……だったらよかったんだけどね」

 困る、と言われたことを思い出してしまって、ため息をつく。
 完璧超人だったら、もうとっくにシェーリと付き合うことができているはずだ。
 何が、僕と彼女の間に壁を作っているのか。
 わかっているつもりで、本当に理解しているのか、いまいち自信がない。

「んだ? 悩みでもあんのか? 聞くだけでいいなら聞くけど」

 やっぱり彼は優しいなぁ。
 そういうお人好しなところはシェーリを思わせて、親しみを覚えるような軽く嫉妬してしまいたくなるような。
 彼女と知り合いですらないライガに嫉妬したところで意味はないのに。

「恋の悩みってやつだよ」
「…………お前が?」

 大きく見開かれたアーモンド色の瞳が、次第にひそめられていく。
 どうやら本気で疑われているようだ。

「何、僕が恋をしちゃいけないの?」
「想像つかねぇ……」

 心外だ。僕は今、シェーリに恋する哀れな子羊だっていうのに。犬だけど。

「優しくしてあげたいのに、加減がわからなくて。優しくすればするほど距離を取られてる気がする」

 僕が一歩近づけば、シェーリも一歩下がる。
 二人の間の距離は一向に縮まらない。
 シェーリが心を開いてくれるまで待ちたいけれど、焦れる気持ちも、ないわけじゃない。

「はー、お前でも優しくしたいとか思うことあるんだな。なんか安心した」
「それはどーも」
「けど、好きな子には優しくしたほうがいいだろ。変にいじめたりするよりは」
「経験則?」
「うっせぇ」

 ゴツン、と軽く頭を小突かれる。でも痛くない。
 非力なニンゲンだから、ではなくて単純に手加減しているからだろう。
 聞くだけ、なんて言いつつこうやって相談に乗ってくれているんだから、やっぱり彼はお人好しだ。

「にしても、お前が惚れるなんてどんな子なんだろうな」

 ライガはニヤッと口端を上げた。
 ちょっとからかうみたいな調子だけど、彼のことだからきっとちゃんと応援してくれている。
 スライムだよ。って言ったら、彼はまた目を丸くするんだろうな。
 いつかライガに紹介できたらいい。
 できればそれは、恋人として。




「ルダ、具合悪いの?」

 休憩時間、めずらしく仕事以外のことで、シェーリから話しかけてもらえた。
 でもその内容は単純に僕を心配するもので、彼女らしい、と僕は笑ってしまった。

「大丈夫。ちょっと寝てないだけ」
「全然大丈夫じゃないじゃない。ちゃんと寝なきゃダメだよ」
「わかってるんだけどね。レポートが終わらなくて」

 偶然、レポートの締め切りが二つ重なっていたのだ。
 しかもその二つは、前もって知らされていた期限よりも早まった。
 いつもは余裕を持って提出を心がけていたのに、ピンポイントでそれだけは後回しにしていたのが祟った。
 その結果、目の下にうっすらとクマができてしまっているのは、自分でも気づいていた。
 もしかしたらそれだけじゃなく、顔色自体も悪いのかもしれない。

「ルダは国立学院に通っているんだっけ。あんなに有名な学校だと、やっぱり授業も難しい?」
「そこまでじゃないよ。自分のレベルにあった授業が受けられるし。一部、鬼教師がいるから、課題が大変だけど」

 でも、その鬼教師ほど、授業がおもしろかったりするんだから、死ぬ気でついていくしかない。
 興味のある分野を勉強することは苦にならない。むしろ、純粋に楽しい。
 楽しいからと言ってまったくつらくないわけでもないけれど、多少の苦労や無理をしてでも、学びたいと思えることは幸いだろう。
 せっかく、学ぶために故郷を離れたのだから、限りある時間を有効活用したかった。

「ルダは頭がいいんだね」

 純粋に感心した、といった様子でシェーリは言う。
 そんな素直さに当てられて、思わず苦笑がこぼれる。

「僕は、ただ知識を持ってるだけよりも、それを活用できるシェーリのほうがすごいと思うけど」
「わたし?」

 シェーリの身体が若干傾く。人型だったら首をかしげている感じなんだろう。

「掃除についての知識。全部、仕事に活かしてるでしょ。そうやって使える知識のほうが、知っているだけの知識よりも何倍も大事だ」

 お掃除スライムの資格を取るためには、筆記試験と実技試験、両方に合格する必要がある。
 シェーリが今の仕事に就いているということは、相当勉強したんだろう。
 何度か話の流れで掃除のコツを聞いたこともある。スライムじゃなくても実践できるようなこともいくつもあった。
 資格を取るためにした勉強を、きっちり活かせているということ。
 シェーリの仕事への、掃除への姿勢は、尊敬に値すると僕は思っていた。

「わたしは……ただ、元から掃除が好きだったから……」
「お掃除スライムはシェーリにとって天職だよね」

 掃除中のシェーリはいつもやる気に満ちていて、どこか楽しそうだ。
 好きなことを仕事にできたのは、本人の努力あってこそだろう。
 シェーリの仕事ぶりによって常にピカピカの店内は、清潔感においてクレームがつくこともない。
 おかげで僕たちも安心して働くことができている。

「僕も、今学んでいることを活かせる職業に就きたいと思ってるよ。そう思えるのはシェーリのおかげ」

 元から、勉強することは好きだった。頭脳は自分の武器だと思っていた。
 ただ、得た知識をどう活かすか。そこまで深く考えたことはなかった。
 高給取りになれればいい。そんなひねくれた考え方をしていた。
 知識を、手段として、正しく使いたい。そう思うようになったのはシェーリに出会ってから。シェーリを深く知るようになってから。
 彼女に恥じない自分でありたい。
 結局のところ、その気持ちが一番強いんだろう。

「ルダ……」

 シェーリの、ただのくぼみでしかない瞳が、ゆっくりと細められる。
 彼女に目玉があったなら、きっと潤んでいたかもしれない。

「その、……ありがとう」

 高く澄んだ声が、お礼を紡いだ。
 妖精の翅をすりあわせたような、きれいで儚さすら感じる声。
 と僕は思っているのだけれど、以前それを伝えたら『ルダは耳が悪い』と言われてしまったっけ。
 どういたしまして、と僕が返すと、シェーリは照れたように笑ってくれた。




「シェーリ、今度どこか遊びに行こうよ」

 いつもどおりシェーリを家まで送っているときに、僕はそうやって誘ってみた。
 そろそろ次のステップに進みたいな、と思ってのことだ。

「どこかって?」
「どこでもいい。シェーリが行きたいところに行こう」

 場所なんて僕には関係ない。
 ただ、シェーリとデートがしたいだけ。
 シェーリはまだ、デートと認識してくれなくてもいいけど。
 好きな人と二人で出かけることは、間違いなくデートと呼んでいいはずだ。

「わたしと行っても、楽しくないと思うよ?」

 僕の気持ちも知らず、シェーリはそんなことを言う。
 たしかに、スライムとだと遊びに行ける場所は多少限られてくる。
 遊園地だと絶叫系には乗れないし、海やプールだと水と同化して区別がつかなくなるし。
 でも、そんなのは僕にとって瑣末なことだった。

「シェーリがいれば、どこでも楽しい」

 本心から、僕は告げた。
 透明の身体が動揺からかぷるっと震える。

「じゃ、じゃあ……」

 シェーリの声が楽しそうに跳ねているのは、気のせいなんかじゃないだろう。
 彼女らしい優しげな声が、僕は一等好きだ。
 理想郷に誘うような澄んだ声は、もうしっかりと僕の耳になじんでいる。

「――だめ」

 その、妖精の声が。

「ごめん、ごめんルダ。やっぱり行けない」

 いつもいつも、僕を奈落にも突き落とすんだけれど。

「ごめんね……」

 心底申し訳なさそうな、悲壮さすら感じる声。
 人型だったら土下座でもしているんじゃないだろうか。
 それは、単に一緒に遊びに行けないことを謝っているようには、聞こえなかった。
 そしてその考えが正しいことは、すぐに証明された。

「お願い、ルダ。わたしじゃだめだよ。スライムじゃだめだよ。お願い、他の人を誘って。他の人を、好きになって……」

 高く高く、澄んだ声が、切々と訴えかけてくる。僕の心を切り刻む。
 気づいたんだろう。気づいてしまったんだろう。
 シェーリに想いを寄せる僕と出かけてしまえば、それは僕に期待させることになってしまうと。
 想いに応えられないなら、一緒に遊ぶべきではないと。
 彼女はそう、答えを出したんだろう。

「うん、でも、あきらめない」
「ルダ……!」
「シェーリが、シェーリに理由を見つけて断るうちは、あきらめない」

 彼女はいつもそうだ。
 断られるのはいつものこと。そのたび心は痛むけど、あきらめようとは思えなかった。
 だって彼女は、一度も。
『ルダのことを好きにはなれない』とも、『ルダとは友だちでいたい』とも、言わないから。
 自分ばかり、スライムであることばかり、理由にするから。

「わたしじゃ、ルダが不幸になる……!」

 悲痛な叫びに、心が逆撫でされたように感じた。
 怒り。憤り。不快感。そんなものに近い。

「決めつけないで」

 気づけば、僕はシェーリを抱え上げていて。
 つぷん、と。
 彼女の表面の膜を破って、スライムの体内に指を突っ込んでいた。

「っ……」

 シェーリの身体が震える。
 悲鳴を飲み込んだような声がして、痛かったなら申し訳ないなと場違いなことを思った。
 逃げようと身体をよじるわりに、僕を攻撃しようという意志は感じない。

「や、やめて……」
「嫌なら溶かせばいい。君の一部になれるなら本望だよ」
「そんな悲しいこと……言わないで」

 強姦まがいのことをされても、僕を傷つけるつもりがまったくないらしいシェーリは、極度のお人好しとしか言えない。
 冷たいものだとばかり思っていた彼女の中はぬるま湯のようで、スライムという種族の性質を生々しく感じた。
 今、自分は彼女に一番近いところにいる。彼女の一番奥に触れている。
 こんなときだというのに、それだけで興奮してしまう男の性が、無性に滑稽に思えた。

「る……る、だ……っ」

 艶めかしい声に鼓動が速まると共に、悲しくもなる。
 どうして伝わらないんだろうか。どうしてわかってくれないんだろうか。
 スライムだから、なんていう僕にとっては至極どうでもいいことで、シェーリはうず高い壁を作る。
 好きになった人がスライムだった、ってだけなのに。
 むしろ、スライムじゃなかったら好きになったかどうかも、わからないのに。

「僕がシェーリを好きになったきっかけ。もう忘れた?」
「お、ぼえて、る」

 途切れ途切れの声が、なんとか答える。
 覚えているなら、なんで。
 スライムであることを理由に、逃げようとするんだろう。

『あの、わたし、お掃除がんばりますから。だからその子のこと、ちょっと考えてあげてくれませんか?』

 高く澄んだ、きれいな声。
 今でも耳の奥に残っているような気がする。

 あれは都にやってきて数ヶ月がたったころのこと。
 両親の反対を押しきってまで故郷を飛び出し、国立学院に入学した僕は、学費以外は全部自分の稼ぎで賄っていた。
 獣人が働ける場所というのは、種族の差別意識が薄れてきた今でも限られている。それは差別ではなく区別だ。
 獣人の抜けやすい毛は、食品を扱う場所でも、精密機器を扱う場所でも問題になる。全身が毛で覆われている獣人もいる中、僕は幸いというべきか耳と尻尾さえカバーすればあまりニンゲンと変わりないけれど、それでも抜け毛がある以上条件は同じ。
 必然と、筋力と体力が求められる仕事に就く獣人が多い中、僕は一般の獣人と比べると体力がニンゲン並だった。
 それでも最初は工事現場で働いていたけれど、身体に無理が来てしまい、学業と両立できなくなりそうだったからやめてしまった。

 体力勝負ではなく、給料も安くはなく、夕方から夜に働ける、獣人も受け入れてもらえる場所、となるとだいぶ条件が厳しい。
 次のバイト先がなかなか決まらずに、ダメ元で何度か行ったことがあった喫茶店の店長に頭を下げていたとき、シェーリが後押ししてくれたのだ。
 シェーリはそこで働くようになって長かった。店長からも掃除の腕を、そして人柄を信頼されていた。
 彼女がそう言うなら、と僕はそこで働けるようになった。
 僕はシェーリに救われた。
 きれいで、儚げで、守られる側そのものの声を持ったシェーリが、逆に僕を守ってくれた。
 僕は彼女を好きになった。好きにならないわけがなかった。
 ダメ元で頼み込んだバイト先が、絶対に辞めたくないバイト先に早変わりした瞬間だった。

「シェーリはお掃除スライムだ。お掃除スライムじゃなかったら、きっと僕はシェーリを好きにならなかった」

 内側を撫ぜるように、僕はゆっくりと指を動かす。
 小刻みに揺れる身体がいとしい。

「そんな僕が、スライムだからって理由で引くと思う?」

 シェーリがスライムだったから、お掃除スライムだったから、あのとき僕をかばってくれたから。
 それはどれも、シェーリがシェーリである以上は当然のことだった。
 僕にとっては今さらなこと。なのにシェーリは信じてくれない。
 彼女の体内に取り込まれる、自分の抜け毛にすら嫉妬した。
 どうしようもないくらい、彼女に惹かれている。

「だ、だって、わたし、は」

 泣きそうな声に、彼女を見下ろす。
 くぼみが、目を泳がせるように忙しなく動いている。

「スライムは、恋とか、しないし」
「人と同じように心があるのに、恋をしないなんて思えないよ」

 スライムは、元はモンスターだった種族だ。
 心がない、だとか、恋をしない、だとか、色々とまことしやかに言われているのは知っている。
 けれどシェーリと接していれば嫌でもわかる。スライムにも心は存在する。
 なら、どうして恋をしないなんて言えるんだろう。

「ふつうの、恋人同士がするようなこと、できないし」
「できることもいっぱいあるよ」

 遊びに行ける場所が限られていたって気にしない。
 セックスだって、ものはやりようだと思う。
 彼女がスライムであることは、僕にとってなんの制約にもならない。

「こ、子どもだって……」
「シェーリにそっくりの子どもならきっとかわいい」

 スライムの繁殖は、一般的に分裂らしい。
 オスの一部、たとえば体液なんかを取り込んで、メスが分裂する。
 それを子どもと呼べるのかは物議を醸しているらしいけれど、別の意識を持つ生命体を生んだならそれは間違いなく子どもだと、僕は言いきれる。
 そこまで思考を巡らせて、僕はふふっと笑ってしまった。
 不思議そうに、少し咎めるみたいに、シェーリは僕を見上げる。

「そんなに真剣に考えてくれて、うれしい」

 子どものことまで考えてくれていたなんて、思ってもいなかった。
 ただ、種族が違うから、スライムが特殊な種族だから、僕を拒絶しているだけだと思っていた。
 シェーリの身体がぶわあっと色みを増す。
 これはたしか、感情が高ぶっている証拠、だったはず。
 このタイミングということは、きっと、照れているんだろう。

「るだぁぁ……」

 情けない声で呼ばれて、ついついオスである自分が反応する。
 怒りも去った僕は、ずっと彼女の体内にいた指を、ゆっくりと引き抜く。
 その手でそっと表面を撫でつければ、彼女の水色はさらに深まった。

「もういい加減、観念して僕のことを好きになってよ」

 一方的に好きになって、一方的に想いをぶつけて、その上こんな道端で強姦まがいなことまでして。
 勝手な言い分だとはわかっている。
 でも、どうやら僕は嫌われてはいないようだから。
 望みを断てないくらいに、シェーリが僕に優しいから。
 今以上を、特別な関係を、望んでしまう。

「どうしようルダ」
「ん?」

 シェーリの困りきったような様子に、首をかしげる。
 何が、どうしよう、なのか。
 このタイミングで僕に助けを求める理由に見当がつかない。

「わたし、もうとっくにルダのこと好きなのかもしれない」

 高く澄んだ声が、今までで一番、僕の心を揺さぶった。
 特別な関係への大きな一歩を、踏み出した音がした。



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