私とあなたで、はんぶんこ

 決して、泣かない。
 審神者はそう決めていた。
 この大切なお役目を賜ったときに。
 自分が揺らげば、周りは困る。
 誰が泣いても、誰が傷ついても、自分だけは、ただ前を向いていなければ、と。
 そう、覚悟を決めた。



 審神者の仕事は少なくない。
 出陣の記録。演錬の記録。遠征の記録。現在所持している刀の記録。資源保有数の記録。それらは日に何度もチェックをしなければいけないものだ。
 加えて政府への報告書や、政府から届いた定期連絡への返信、他にもお世話になっている方々への手紙など。
 きちんと終わらせていたつもりでも、気づけば書類がたまっていたりする。
 今日も、審神者は書類仕事に追われていた。

「主君、そろそろ休憩にいたしましょうか」

 現在出陣している近侍の代わりに傍についてくれている、前田藤四郎が控えめに声をかけてきた。
 審神者の集中力が切れてきたことに、目敏く気づいたのかもしれない。
 このまま続けても、あまり捗らないだろう。
 それくらいなら、少し気分転換してから再開したほうがいい。
 急ぎの仕事はないから、後回しにしたところで困ることはない。
 そこまで考えて、審神者は前田に笑いかけた。

「ありがとう、そうさせてもらうね」
「では、お茶を淹れて参りますね」

 前田はにこっとかわいらしい笑みを見せ、すぐにその場を辞した。
 他の者に任せればいいというのに、素早いものだ。
 書類仕事はそれほど手伝えることはなかったから、ようやくするべきことができてうれしいのかもしれない。
 幼い姿のわりに礼儀正しく、大人顔負けの気配りを見せたりもするが、やはり精神年齢は外見に引きずられるところがあるのだろうか。
 両手を天井へ伸ばしたり、首を回したりと、凝り固まった身体をほぐしながらお茶を待つ。
 と、少しもしないうちに外が騒がしくなってきた。

 もしや、と思い審神者は障子を開けた。
 きょろきょろと左右を見回しても、すぐ近くには誰もいないようだ。
 審神者の仕事の邪魔をしないようにと気を利かせてくれていたのだろう。

「あ、主君!」

 廊下の向こう側から、先ほどお茶を淹れに行ったはずの前田がやってきた。
 その手には何も持っていない。
 そして彼のどこかあわてた様子に、審神者は嫌な予感がした。

「だ、第一部隊が帰城いたしました!」

 その報は予想通りだった。
 声の聞こえる方向は、たぶん門のあたりだ。
 内容までは聞き取れないけれど……この騒ぎようは。

「誰か、怪我をしているの?」

 問いかけの形を取った確認だった。
 きっとそうなのだろう、と審神者は確信を持っていた。
 それは、問われた前田の表情を見ても、一目瞭然だった。

「……五虎退が、その……」

 消え入りそうな声で、前田は答える。
 申し訳なさそうな、心配そうな、不安そうな。
 揺れる瞳に、審神者は微笑みかけた。
 大丈夫、と言うように。

「ありがとう。前田は先に手入部屋に行って、準備を整えておいて。五虎退を連れてすぐに行くわ」
「は、はいっ!」

 返事が早いか、前田はすぐに手入部屋に走っていった。
 審神者も第一部隊のいるであろう門へと足を早める。
 今は緊急事態だ。行儀が悪いなどと注意する者はどこにもいない。
 途中ですれ違った者たちに部隊の様子を聞いたり、指示を飛ばしたりしながら、進んでいく。
 逸る気持ちとは裏腹に、門まではまだ、遠い。

 彼は、無事だろうか。
 そんな、審神者としてはふさわしくない思いを抱いてしまった。
 いつも審神者の近侍を努めてくれる、第一部隊の隊長は。
 薬研藤四郎は。
 傷一つなく帰ってきてくれただろうか、と。
 そんなことはもちろん誰にも言えない。
 特に、傷を負って帰ってきた五虎退には、絶対に知られてはならない。
 審神者は、皆を導く標でなければならない。
 誰か一人に心を傾けることなど、あってはならないのに。


  * * * *


 結論から言うと、薬研はかすり傷一つ負っていなかった。
 駆けつけた審神者に笑顔を見せ、『悪い、大将。手入れ頼んだ』と、五虎退の肩を支えながら告げた。
 戦いのあとということで髪はぐしゃぐしゃになり、服は薄汚れていたが、その表情には余裕が見て取れた。
 いつもどおりの薬研に安堵し、彼と共に五虎退を手入部屋まで連れて行った。

 準備をしておいてくれた前田のおかげですぐに手入れを始められ、薬研は邪魔になるからと出て行った。
 五虎退は痛みに涙をこぼしていたが、本体の手入れをしている途中で眠りに落ちた。
 怪我だけではなく、疲れもたまっていたのだろう。
 休息は一番の薬になる。ゆっくり寝かせておこうと、審神者も手入部屋をあとにしようとした。

 ガラリ、と戸を開いたところに、彼はいた。
 今までずっとそこにいたのだろうか。
 こちらに背を向け、縁側に座っていた薬研が、音に反応して振り向いた。

「あいつの調子、どうだ?」
「大丈夫。ちゃんと手入れしたから、あとは休んで疲れを取るだけね」
「そっか」

 審神者の返答に、薬研は表情を和らげた。
 けれど、なぜだろうか。
 いつもの彼とは、どこか違う気がした。
 違和感を覚えながらも、審神者は薬研の隣へと腰を下ろす。
 なんとなく、このまま去るのはよくないように思えて。
 そして、自分もまた、彼と離れがたかったから。

「面目ない」

 審神者に向かって、薬研は頭を下げた。
 責任感の強い彼らしい、と審神者は思った。

「俺が隊長だったのにな、仲間に怪我をさせちまうなんて」

 顔を上げた薬研は、自嘲の笑みを浮かべていた。
 いつもの、審神者の手助けをしてくれる近侍としての彼でもなく、皆をまとめ上げる隊長としての彼でもなく。
 仲間を守れなかった、一人の男としての顔。
 ああ、そうか、彼もつらかったのだ。
 余裕など本当はどこにもなかったのだ。
 隊長として、帰ってくるまで誰にも見せられなかっただけで。
 五虎退だけでなく、彼も、傷ついていたのだ。
 たとえその身体には残っていなくとも。

「……大将にも、つらい思い、させたな」

 薬研の声が心にまで染み込んでくる。
 どうして彼にはわかってしまうのだろうか。
 必死に見せないようにしているのに。
 誰にも気づかれないように隠しているのに。
 決めていたのに、決めていたのに。
 今、とても、泣きたい。

 本当は。
 本当は、誰かが傷つく姿など見たくはないのだ。

 時を遡れるのは刀剣だけ。
 審神者は何度、そのことを悔しく思ったことだろう。
 もし、その場にいても、何もできることはないと。
 むしろ、足手まといになるだけだと。
 そうわかっていてもなお。
 悔しくて、歯がゆくて、泣きたくなるほどに。
 けれど自分は泣いてはいけない。
 審神者の代わりに戦って、審神者の代わりに傷ついてくれる、皆がいるかぎり。

 こつん、と。
 審神者の肩に、薬研の頭が乗せられた。
 彼にしてはめずらしく、まるで甘えるように。

「ごめんな」 

 かすかな、吐息のような声が、直接身体に響いた。
 審神者はふるふると首を横に振る。
 声を出したら泣いてしまいそうだったから、振動だけで彼に伝えた。
 薬研が謝る必要などどこにもないのだと。
 審神者が傷つくのは、審神者が弱いからだ。
 心を強く持つことができないからだ。
 もっとしっかりしていれば。
 もっと強ければ。
 きっと、皆も安心して戦うことができるのに。

 薬研の背中を、審神者はそっとさすった。
 審神者が泣きそうになったとき、いつも薬研がそうしてくれたように。
 いつも、今も、審神者が彼のぬくもりに慰められているように、彼も審神者の手に少しでも心を軽くしてくれたらいい。
 どんなときも手を差し伸べてくれる、支えてくれる、この小さくて大きな人を。
 自分も支えてあげたいのだと。
 一人では立てない日があっても、二人で立ち上がることができたならと。そうでありたいと。
 審神者は自覚した。

「いつもと逆だな」

 ハハッ、と薬研は笑う。
 その声に陰りは感じられない。
 空元気かもしれなくとも、少しはいつもの調子を取り戻せたのだろうか。
 薬研は肩から顔を上げて、審神者の手を取る。
 手袋越しに伝わるぬくもりに、心があたためられる。

「大将の手はすごいな。打ち粉を持たなくても、手入れできちまうのか」

 どこか茶目っ気を含んだ物言いに、思わず審神者も笑みをこぼした。
 審神者の手が薬研を元気にできたというのなら。
 それはきっと、審神者の心が薬研に届いたからだろう。
 そしてそれは、逆もまたしかり。

「薬研の手も、同じだよ」

 いつも、いつも、審神者に元気をくれる手だ。
 手入れされているのは、審神者のほう。
 薬研の手がなければ、きっと自分は、もう何度も泣いていた。
 今まで涙を流すことなく、なんとか立っていられているのは、薬研の手が、審神者を支えてくれているから。

「じゃ、二人いれば最強ってことだな」
「そうね」

 明るい笑顔でそう言う薬研に、審神者もくすくすと笑った。
 涙の気配は、もうどこにもなかった。



作品目次へ