今日という日に

「嫌い」

 彼女の声はささやくように小さく、けれどたしかに一期一振の耳に届き、心を揺らした。
 傷つくよりも先に、固まってしまった。
 まさかそんな言葉を主の口から聞くことになるとは思ってもいなかったのだ。
 何か粗相をしてしまっただろうか。問いかけるべきか、それすらも更に不興を買う要因になってしまったらどうしようか。
 ぐるぐると回る思考とは裏腹に何も反応を返せずにいた。

「そのっ……ごめんなさい!!」

 一期一振の硬直が解ける前に、審神者が勢いよく頭を下げた。
 何を謝ることがあるのかわからないほどに、一期一振の思考能力は低下していた。

「今日、エイプリルフールって言って、嘘をついてもいい日なんです。だから、もちろん今のは、嘘で……ごめんなさい」
「ああ……そういうことでしたか」

 ネタを明かされ、全身から力が抜けていった。そのままうずくまってしまいたくなるが、審神者の前でそれは無作法だ、と耐える。
 自分でも驚くほどに、嫌いという言葉は重すぎたらしい。

「本当にごめんなさい。言っていい嘘と悪い嘘がありますよね」

 申し訳なさそうに身体を縮こまらせる審神者に、一期一振は笑った。
 嫌われたわけではなかったという安堵からだけでなく、審神者の優しさと、少々抜けたところのあるかわいらしさに。
 真剣に謝っているのだから笑ってはいけないと思いつつも、声がもれてしまった。

「ははっ。いや、気にすることはありませんよ」

 そう笑いかければ、審神者はほっとしたように表情を和らげた。
 やはりそのほうがいい、と一期一振は笑みを深める。
 舞い散る桜の花弁の似合う、朗らかな彼女でいてほしい。
 そして、その傍らに、ずっといさせてもらえれば。

「よかった。どうやら私は貴女に嫌われることが何より怖いようですので」

 どうか嫌わないでほしい。お傍に置いてほしい。
 本音をそのまま告げることはできず、想いのかけらを言の葉に乗せた。
 それはしっかりと伝わったらしく、審神者はうっすら頬を染めた。

「ご、ごめんなさい……嘘をつこうって思ったら、とっさに思ってたことと反対の言葉が出てきて……」

 今度は一期一振のほうが赤くなる番だった。
 自分が何を口走っているか、審神者は気づいていないらしい。
 嫌いの反対は、好き。
 審神者の優しさを疑ったことも、刀剣たちへの情を疑ったこともないけれど、こうして言葉にされると……カッと胸が焼けつくような感覚を覚えた。
 それは決して不快なものではなく、むしろ、この上なく甘美な。
 名をつけてはならない感情に、一期一振は翻弄される。

「お返しに、私のことも嫌いって言っていいですよ!」

 気合いを入れるように握りこぶしをして、審神者はそんなことを言い出した。
 彼のことを思っての提案なのだろうが、一期一振は苦笑して首を横に振る。

「言えるわけがありません。たとえ、嘘でも」
「でも、それじゃ……」

 私の気がすまない、と審神者はしゅんとする。
 けれど、言えるわけがないではないか。
 それはもちろん、主を傷つけたくないから、という思いもあるが。
 何よりも自分がその言葉を口にしたくなかった。
 嫌い、と告げた自分の声が、審神者の耳に触れるのかと想像するだけで、言いようもない不快感を覚えた。
 だから、審神者の気遣いであっても、その提案には乗れない。

「では、こうしましょう。今日の主のおやつは私がいただくということで」
「えっ……!」

 審神者はあからさまに悲壮な声を上げた。
 それもそうだろう、今日のおやつは審神者の大好きなプリンだ。
 昨日、仕事をしっかり終わらせたご褒美にと、燭台切光忠が作ると言っていたのを彼も聞いていた。
 それでも審神者はほんの少しだけ目を泳がせたあと、すぐに口を引き結び、

「……わ、わかった」

 と硬い声で告げる。
 その瞳には菓子への未練を浮かべたまま。
 どうにもこらえきれず、一期一振はまた笑い声を上げてしまった。

「嘘ですよ」
「……! だ、騙された……」

 がっくりと肩を落とす審神者を見て、どうにも愉快な気持ちになってしまう。
 ああ、やはり、と一期一振は思う。


 やはり、嫌いなどとは嘘でも言えそうにない。



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