優しい声は信をささやく

「大坂……ですか」
「ええ、大坂冬の陣。あなたなら大丈夫だと思うんだけど」

 今日の予定を告げると、鯰尾は目をまたたかせた。
 普段は「わかりました」と笑顔で答えてくれるだけに、その反応に審神者は少しだけ違和感を覚えた。
 けれど、初めて行く時代だからだろう、と自分で納得する。

 時を遡る刀剣は、その身に宿る霊力を高めれば高めるほど、遠い過去へと飛べるようになる。
 歴史を改変しようと目論む者たちは、一度や二度で懲りたりはしない。
 何度でも同じ時代へと部隊を送り込み、歴史をねじ曲げようとする。
 結局は、イタチごっこ、なのかもしれない。
 それでも審神者は、今、自分にできることがあるのなら、全力を尽くしたいと思う。
 自分を主と仰ぎ、慕ってくれる刀剣たちのためにも、審神者は判断を間違えるわけにはいかなかった。

「大丈夫です、行ってきますね」

 にこり、と鯰尾はいつもどおりの笑みを見せた。
 そのことにほっとした審神者も、彼に微笑みを返す。

「ねえ、主」

 鯰尾が一歩、審神者に近づく。
 どうしたのだろうかと見上げると、鯰尾はその柔和な目元を細めて、口を開く。

「ちゃんとお役目を果たして帰ってきたら、ご褒美ください」

 なんだそんなことか、と審神者は肩の力を抜いた。
 審神者と同じくらいの外見年齢をしているくせに、短刀の子たちのようなことを言う。
 その鯰尾の人懐っこさが、審神者は嫌いではなかった。
 むしろ、親しみやすく、接しやすい。
 心の距離のある刀や、主従としての境界線を引く刀がいる中、気のおけない友人のように話せる鯰尾は審神者の貴重な憩いだった。

「いいよ。傷一つなく帰ってきたらね」
「俺、がんばりますから」

 屈託のない笑顔に、審神者の心もほぐれる。
 がんばって、と審神者が言えば。
 はい! と元気な声で鯰尾は答える。
 いつもどおりの、やりとりだった。
 初めに感じた違和感を、審神者はすっかり、忘れてしまっていた。


  * * * *


 無事に帰ってきた鯰尾たちを、審神者は笑顔で出迎えた。
 おかえりなさい。お疲れさま。よくがんばったね。
 そんな言葉で。
 ただいま。大丈夫です。がんばりました!
 鯰尾も笑顔でそう返してくれた。
 傷ついた刀もなく、疲れを訴える者もなく、特に問題は起きなかったようだ。

「主、ご褒美ください」

 夕餉の前、審神者の部屋を訪ねてきた鯰尾は、開口一番にそう言った。

「わかった、何がいい?」

 書き物をしながら、目だけそちらに向けて審神者は問う。
 今日の出陣の記録をつける必要があった。
 どこへ行って、どんな敵と遭遇し、どれだけ倒したか。
 部隊長や隊員の話を元に、するすると書いていく。

「……何もいらない、ただ……」

 その鯰尾の声は、小さくてよく聞き取れなかった。
 振り返ろうとした審神者をとどめたのは、後ろから抱きしめてきた腕だった。
 すらりとしていて細いのに、思っていたよりもしっかりとした腕。
 脇差とは言え、刀を持つ腕だ。

「何も言わないで。何も聞かないで。ちょっとだけ……こうしていて」

 耳元でささやく声は、確かに震えていた。
 いつもの彼らしくなく、弱々しく、はかなげで。
 風が吹いたらあっけなく折れてしまいそうな細い枝のよう。
 けれど腕には、その細腕からは想像つかないほどの力が込められて。
 息苦しさを覚えた審神者は、それでもその腕から逃れようとは思わなかった。

「鯰尾……?」

 ただ、審神者は混乱していた。
 なぜ鯰尾がこんなことをするのか。
 急に、それこそ縋りつくように、抱きついてきた理由とは。
 聞かないで、と言われた手前、問いかけるように名前を呼ぶことしかできなかった。

「今だけ、だから」

 鯰尾はそれしか言わなかった。
 明らかに常とは様子が違うというのに、その理由を語ろうとはしない。
 なぜ、だろうか。
 いつも笑顔で、前向きで。いつも周囲を明るくする不思議な力を持った鯰尾藤四郎。
 その力に助けられてきたのは一度や二度じゃない。
 そんな彼から笑顔を奪うものが何か、審神者は知りたいと思う。
 そして、いつも彼に救われている分、自分ができることがあるなら力になりたい、とも。

 話してくれないのなら、自分で答えを見つけるしかない。
 今日あったことなんて、審神者は一つしか思いつかなかった。
 大坂への出陣。
 出陣する前も、帰ってきたときも、いつもどおりに見えたけれど。
 我慢していたのかもしれない。
 その笑顔が、本当に心からのものだったか。
 しっかりと見ることができていたか、審神者は自信がなかった。

 思えば、少しの違和感はあったのだ。
 大坂、という言葉に、鯰尾は反応を示した。
 大坂。大坂冬の陣。江戸の時代の始まり。
 少し考えただけで、いや、少し記憶を探っただけで、答えはぽろりと落ちてきた。
 彼はよく言っていたではないか。
 燃えて記憶がなくなった、と。
 鯰尾が前の主と城とともに燃えたのは、大坂夏の陣のこと。
 それは、大阪冬の陣の、半年後の戦。

「ご、ごめ……」

 謝らなければ、と思った。
 どうして配慮できなかったのだろうか。
 初めのころは、もっときちんと考えられていたはずだ。
 彼らの使われた時代へは行かせないように。元主のいる時代へは行かせないように。
 その切っ先が揺らいでしまわぬよう。
 いつから慢心していた?
 いつから、無神経に彼らの心を傷つけていただろうか。

 誰だって、己のつらい過去を変えたいと思うことはあるだろう。
 鯰尾の失った記憶が、目と鼻の先にあったのだ。
 どれだけ手を伸ばしたかっただろう。どれだけ救い出したかっただろう。
 けれど彼はただ敵のみを排除してきてくれたのだ。
 己が燃える、その歴史を、変えないために。

「言わないでったら」

 審神者の謝罪をさえぎったのは、他でもない鯰尾だった。
 少しかさついた指先が、そっと審神者の唇に触れる。
 拘束力のない指が、まるで強力な接着剤のように審神者の口を閉じさせる。

「俺は……俺はね、主。主を信じているよ。何が善で何が悪なのか、俺は戦うことしか能のない刀だから、わからないけど。主がいれば、俺は迷わずにいられる」

 耳元で、低く重く響く声は、真剣そのもので。
 彼が何一つ嘘をついていないということが知れた。
 鯰尾は、本当に心から、主を、審神者を、信じてくれているのだ。
 己の記憶を取り戻すことよりも、審神者の判断を。
 歴史は守らなければならない、という審神者の信念を、優先してくれているのだ。

「あなたが示してくれた道を、俺はあなたと一緒に進むよ」

 静かで、優しい声が、耳朶を打つ。
 審神者は無性に泣きたくなった。
 本当に泣きたいのは、きっと鯰尾のほうだろうに。
 審神者にできることは、彼の信頼に応えられるよう、力を尽くすだけ。
 己を支えてくれるぬくもりを、失わないように。


 ただ、ありがとう、と。
 審神者はそれだけしか、言うことができなかった。



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