シャラシャラリ。
微か耳を引っ掻く音に、私は引き寄せられた。
大通りが交わる噴水広場の中央、噴水の縁を舞台にして、踊り子が舞っている。
キラリ、キラリと目を焼くのは、どうやら踊り子が身につけているアンクレットらしい。音の正体もそれだ。
緑と青、そして金のビーズで作られているアンクレットは、踊り子の足に幾重にも巻かれ、動きに合わせて揺れる。
まるでそれ自体も生きているかのように。
日の光を、水の光を反射して、ビーズが輝く。光の軌跡を私に見せつける。優美な線を描く光に、しばし私は見惚れた。
歌も楽の音もなく、舞のみで客を呼ぶ。相当の踊り子なのだろう。道行く人々が足を止め、周囲には人だかりができている。固定の客もついているのかもしれない。
金の巻き毛は風を味方にして踊り子を飾る。色街の踊り子とは違い、肌の露出は控えめだ。動きを妨げぬようサラシでも巻いているのだろう。男を誘う色気はないが、万人を惹きつける輝きがあった。
舞が終わると、踊り子はふうわりと笑って流れるように礼をした。周囲から惜しみない拍手が注がれる。
コインの回収も終わり、人がいなくなった頃合いを狙い、私は一気に踊り子との距離を詰めた。
「神殿で舞ってはいただけないでしょうか」
私の言葉に、踊り子は目を軽く見張るに留めた。場慣れしていると、それだけで理解する。
こういった誘いは、そう珍しいことではないのだろう。神殿とは、さすがに初めてのことだろうが。
「新手の詐欺?」
淡い笑みを口元に浮かべ、目だけで私を探ってくる。
年も背も体格もこちらのほうが上。言葉は厳しくとも、相手を刺激しないよう表情を選べるほどの冷静さも持ち合わせているらしい。
「いいえ。と申しましても、私も自分が怪しい者だと理解しているつもりです。一応、ここに身元を証明するものならばありますが。いかがでしょう?」
スッと懐からバッジを差し出す。
この国の者であれば、それだけで私が何者であるか分かるはずだ。
「一級神官……そんなお偉いさんが、何の用?」
「先程も申しましたように、舞を踊ってほしいのです。……龍に捧げる舞を」
「……は?」
先程よりも目を見開き、口から零されたのは威嚇するような低い声。思わず素が出かかったのだろう。
「およそ二十日後に行われる舞の奉納に、あなたも参加していただきたい」
舞の奉納。
定期的に行われる神殿の巫女によるものは、特別な祭事以外では一般公開はされない。
それとはまた別に、年に一度、男は剣の舞を、女は羽衣の舞をこの国の神たる龍に捧げる。その日に限っては国の民であれば参加も観覧も自由だ。
私はぜひともその場で踊り子に舞ってほしかった。
「私の記憶が正しければ、ただの奉納ではなかったはずだけれど?」
「ええ、それでもよろしければ。報酬は言い値を払います」
そう言いながら、踊り子の掌に金貨を乗せる。
今回の舞への見料でも、前金でも、好きなように思ってくれればいい。あの舞にはそれだけの価値がある。
「……今すぐは答えられない」
掌の金貨をしばし見つめたのち、睨むように私に視線を向けて踊り子は言う。私はそれに頷きを返した。
「当日まで悩んでくださってかまいません。もし、舞っていただけるのであれば、当日の正午までに神殿の北の門にいらしてください。迎えを遣わします。衣装はご自身で都合をつけられそうになければこちらで用意することも可能です」
普段の暇が嘘のように当日は忙しくなる身の上なので、自分は迎えに行けない。
きっとこの踊り子は己の衣装を身に纏って現れるだろう。踊り子の晴れ姿を一番に拝める権利を譲るのは惜しいが、信頼できる者に任せるしかない。
「ひとつ、訊いていい?」
踊り子の瞳が私をとらえる。
青、だ。
晴れ渡る空の色だ。
やはり、これがいい、と私は思った。
「あなた、男? 女?」
どちらにも見える、という言葉を、私は微笑みで受け流した。
△▼△▼△▼△
「まったく、君は勝手をする」
「いつものことでしょう」
少しも悪びれることのない私に、同じ一級神官の男は溜息を吐く。それが承諾の意だと長い付き合いの私は理解していた。
当日、踊り子を迎えに行ってくれる役は彼に決まった。
「巻き込まれるこちらの身にもなっていただけないか」
「文句を言いながらも巻き込まれてくれるあなたに私はいつも感謝していますよ」
「……ずるい奴だ」
フイ、と男は視線を逸らす。
彼の善意に甘えていることは知っている。
神殿の人間は皆甘い。俗世の毒から隔離された者達は、人としては欠けているのかもしれない。
「俺でなくとも、君の頼みであれば聞くだろう。それでも俺を選んでくれたのなら、信頼に応えてみせるしかない」
仏頂面で、けれど声も言葉も真剣で。
やはり甘い。甘すぎる。
そしてその甘さに、私はすっかり慣れきってしまっていた。
つまりは、その甘さに遠慮無く付け込ませてもらうということ。
「正午か。時間ぎりぎりだな。当日どれだけの者が押し寄せるかは推測するしかないが、その踊り子の出番は恐らく夕刻になるだろう」
恐らくとは言っているが、彼の推測であれば外れることはないだろう。
あの踊り子は、きっと最後に踊ることになる。それでいい。
「来るのか」
男は眉を顰めて、短く問う。逃げやしないかと心配らしい。
逃げるも何も、私は踊り子に選択を委ねたのだけれど。
「ええ、必ず」
あれはそういう目をしていた。空色の奥で轟々と火が燃えていた。
たとえ当日、天から槍が降ってこようが、血に濡れながら来るだろう。
「ついに、選ばれるのか」
「さあ……それは、あの者次第でしょう」
光の軌跡と、晴天を写し取ったような瞳を思い出す。
あの踊り子は、当日、どんな衣装に身を包んで姿を現すのだろう。どんな舞を披露してくれるのだろう。
今まで退屈なばかりだった儀式が、初めて楽しみに思えた。
△▼△▼△▼△
―――――そうして踊り子は現れた。
私の眼前で、踊り子は軽やかに舞う。ステンドグラスから差し込む斜陽を浴びながら。
以前の衣装よりも更に露出は抑えられていた。神前であるということを意識したのかもしれない。
腕は肌にピタリと沿った独立型の袖で覆われており、胴体には何重にも巻いた布を身につけ、花のコサージュで留めていた。
踝の上までの軽く膨らんだ下衣は舞に合わせて風を孕み、動きの激しさを知らせる。
踊り子が手にしているのは剣ではなく羽衣。それはヒラヒラリと見る者の目を惑わす。
あのアンクレットは変わらず踊り子の足にあった。光の軌跡がまるで流れ星のようだ。シャラリという音を拾った気がするが、演奏に紛れてしまって私は残念に思った。
奉納の舞に貴賤は問われない。選ばれる覚悟さえ持っていればいい。あるのだろう、彼には。それだけの覚悟が。静かに燃えるような色の瞳が教えてくれる。
曲が小休止に入り、踊り子も動きを止める。
礼をするように、踊り子は胸に手を持っていき。
ブツリ、と音がして、コサージュが外された。
クシャリと握られた花はその掌から落ちていく。布とともに。
まるで、龍が舞い降りた際に潰された花のよう。
彼は、私を見ていた。私だけを見ていた。挑むように。それでいて懇願するように。
演奏者も皆呆気に取られ、曲は完全に止まった。それでいい。彼には歌も楽の音も必要ない。舞さえあればいい。ビーズの涼やかな音だけあればいい。
ゆうるりと、彼の腕が上がる。足を引く。シャラリとビーズが小さく鳴り、舞が再開した。
男の姿で、女の舞を。それは彼にしか舞えない。彼だけの武器。
その舞が終わる時を、誰もが固唾を飲んで見守った。誰一人として動く者も、音を立てる者もいなかった。
誰もが、魅せられた。誰もが、確信していた。
音もなく、舞は終わる。優雅に礼をした彼が頭を上げた瞬間、私は動いた。
首を伸ばす。後ろ足に力を入れる。己を守る鱗が風に溶けていくような心許なさ。この感覚には慣れ親しんでいる。
私は、彼の目の前で、人化した。
「いとしいひと。私はあなたにとらわれた」
原初の龍が、生涯の伴侶に告げたとされる言葉。
祖である龍の想いが手に取れるようだ。永く慈しんだ花を散らしてでも、彼女の前に降り立った。
それは衝動。それは情動。
私も見つけてしまった。体を作り変えるほどに焦がれてしまった。
私は彼の前に跪く。アンクレットで飾られた足の甲に、そっと口づける。
生命と、空と、光の色のビーズ。彼は初めから私を呼んでいた。
見上げれば、彼は空色の瞳を限界まで見開いていた。龍に選ばれたことを驚いているわけではなさそうだ。
龍が私だったこと。そして私の姿が以前とは違うこと。
もう『どちらにも見える』とは言われないことだろう。性は定まった。
驚かせてしまったことを申し訳なく思いながらも、初めて見る表情が妙に楽しい。
「そのお姿も素敵ですよ」
心のままにそう告げれば、彼は名状しがたい表情へと変化した。
悔しさ、喜び、寂しさ。そんなものを全て引っ括めたような。
「……生憎と、剣舞は嗜んでいないんだ」
ごめんね、と。
少しも悪く思っていなさそうな謝罪に、気が合いそうだと私は笑みを吐いた。
△▼△▼△▼△
儀式の後、私達は二人きりになることができた。
龍が性を決め、生を選んだ。龍の伴侶が決定した。
めでたいことだと神殿は沸き、それが二人を飲み込む前に、一級神官の男が逃がしてくれた。
これも貸しだ、という言葉は、都合よく忘れておこうと思う。
私と彼は郊外までやってきていた。
ここは初めて龍が降り立ったとも言われている地のため、石碑もぽつねんと置かれている。
とはいえ訪れるのは観光客程度で、山を登らなければならないために夕暮れ時の今は誰もいない。龍の姿ではひとっ飛びだったけれど。
「うそつき」
「嘘をついた覚えはありませんが?」
唇を尖らせる彼に、私は首を傾げる。
一級神官という地位も仮初めではあるが嘘ではない。外に出るときに無職では困る、と神殿が用意してくれたものだ。
「舞を捧げる龍が、あなただなんて聞いていない」
ああ、そのことか。
「言っていませんでしたからね」
ケロリと答える。
それも嘘にはならないだろう。きっと彼も分かっている。
分かっていて、文句を言わずにはいられないのかもしれない。
「僕は、龍に。あなたに、選ばれたの?」
強い色をした瞳が、微かに揺れる。
体が作り変わった今では目線の高さはほぼ同じで、彼の瞳の色がよく見える。
金剛石も火には負けるように。脆さをも内包した空の色は、変わらず私をとらえる。
龍の背で運ばれた今ですら、信じられないのだろうか。
信じたくない、のだろうか。
「ええ、残念ながら」
「別に嫌なわけじゃない」
フイ、と視線が逸らされる。
一級神官の男を思い出す仕草だ。似ている部分があるのかもしれない。
仲良くなるか、同族嫌悪となるか。彼は私の周りの者とどう関わっていくことになるだろう。彼がいれば退屈とは無縁でいられそうだ。
「そうですか、それは安心しました。私も進んで伴侶に嫌われたいわけではないので」
私にとっては生涯の伴侶だが、彼にとっては信仰の対象でしかなかった龍だ。
怖がられていないだけ御の字といったところか。
「……だったら、もう少し説明が欲しかった」
近場の岩に腰掛け、ブラリと足を揺らした。
そうしているとずいぶんと幼く見える。十四、五を数えた程度だろう。
考えてみれば私は彼の名前すら未だ知らない。
知っているのは、僅かなこと。舞の名手であること。光の髪と空の瞳を持つこと。少女と見紛う美貌でありながらも、体はしっかりと男のものであること。強かで、それでいて酷く真っ直ぐであること。
それだけ知っていれば、今は十分だ。
「龍はとても傲慢で、勝手ないきものだということですよ」
「そうみたいだね」
彼は諦めたように溜息を吐いた。
ブラリブラリ。シャラシャラリ。
彼が足を振るごとにビーズが音を立てる。
生命に、空に、光に溶けていた龍を具現させたのは、一人の少女。
龍は少女を、少女を育んだその地を守護した。それがこの国の始まり。
龍は伴侶を得なければいずれ世界に溶ける。それもまた定めと呼ばれるものだろう。
しかし人は願う。龍の加護を。龍の伴侶を。純粋な利己心と、純粋な善意から。
そうして毎年、舞の奉納と称し、龍の伴侶探しが行われる。
ただ面倒なだけだった。愛しい世界とひとつになれるのならばそれでよかった。伴侶を望んだことなどなかった。
それがどういうことだろうか。儀式の日が憂鬱で、気を紛らわせようと下りた城下町で、光を見つけてしまった。とらわれてしまった。
偶然なのか、それともこれも必然なのか。私も、最後の龍になることはできなかった。
結局、これまで脈々と血を繋いできてしまったのだから、龍はこの地にとらわれる運命なのかもしれない。
「僕は、ただ、見返したかっただけだ。親を、大嫌いな奴らを、僕を爪弾く世の中を」
ポツリ。
声がビーズの音に消されることなく耳に届く。
混じりけのない心が晒されている。そうだ、彼は嘘をつかない。龍の前で自分を偽らなかった。男の姿で、女の舞を。
だから私は彼を選んだ。彼を選べた。
「そんな醜い僕でも、いいと言うの」
傷を孕んだ瞳に、私が映っている。私だけが映っている。
それは歓喜。それは切願。
嗚呼、私も龍であった。ただ一人のために姿を成した龍だった。
「言ったでしょう。私はあなたにとらわれた。それが答えです」
私に彼以外の選択肢はなかった。彼を選べなければ、私は生命に、空に、光に消えていただろう。
それはそれで幸福であったように思えるが、しかし。
今この時、彼の隣にあれること以上の幸福は存在しない。
「……龍が、あなたでよかった」
小さな、小さな、吐息のような声。自然と頬が緩むのを感じた。
きっと私達は、似合いの伴侶になれる。