おねがい、ルイス。そう言えばいい。
それだけで彼はなんだって叶えてくれた。
フレンサのドールが欲しい。カリエのクルミ入りクッキーが食べたい。誕生日には私をイメージしたブーケをプレゼントしてほしい。
名前を呼んでほしい。頭を撫でてほしい。手の甲にキスをしてほしい。抱き上げて庭を回ってほしい。
全部、全部、ひとつ残らず、叶えてくれた。
私にとっての魔法の言葉。
だから私は、そのときも「おねがい」をした。
「おねがい、ルイス。私をお嫁さんにして」
彼は少し驚いた顔をして、でもすぐにいつもの穏やかな笑みを浮かべて。
「お姫さまの仰せのままに」
いつもと同じ言葉で、私のわがままを受け入れてくれた。
そうして、当時十七歳のルイス・ショーロブレッダと、十歳のニーナ・リーヴスフレイの婚約は公に認められた。
花とお菓子の国と言われるプリルアラート。都から離れた片田舎ラニアの地にも、一足遅く春がやってきた。
家の顔である庭に力を入れるこの国では、春は一番華やぐ季節であり、奥方や庭師の努力が報われる季節でもある。
庭に散歩に出るときによく話をするリーヴ家の庭師も、この春のためにずいぶんと張りきっていた。
今、きれいに咲いた春の花を、私は誇らしく思う。
リーヴスフレイ、通称リーヴ家は、ラニアに六家ある卿家きょうけのひとつ。
領主である公家こうけと、公家を支える卿家によって、この領地は治められている。
貴族とはいえど、こんな田舎の貴族に権威も何もあったものじゃない。
あえて貴族らしいところをあげるとすれば、屋敷が大きく庭が広いこと、くらいじゃないだろうか。
母と庭師が相談しながら作り上げられた庭は、バラを中心に品のある花々でまとめられていて、季節によって違う姿を見せる庭は子どものころからお気に入りだった。
今日もその庭を散策しようと外に出た私は、ちょうど訪れた客に目を輝かせた。
肩にかからないくらいの黒茶の髪、優しげなグレーの瞳。こちらを見て微笑む彼は、私の婚約者だ。
「ルイス、いらっしゃい!」
うれしさあまって私は彼の懐に飛び込んだ。
子どもっぽいかもしれないが、婚約者の予定外の訪問に浮き立つ心は仕方がない。
しっかりと抱きとめてくれる両の腕に、くすぐったさを覚える。
「ああ、ニーナ。ちょうどよかった、リーヴ卿はいらっしゃるかな?」
「いるけれど……ルイス、婚約者に会って最初に口にするのが父さまの話?」
むっとした顔をわざと作れば、ルイスは苦笑をこぼす。
私が冗談で言っているということも理解しているんだろう。
ルイスはショーロ家の嫡男。いずれ卿家を継ぐ身として、仕事や勉強のために私の父の元を訪れることは少なくない。
「ごめんね、父の使いでやってきただけなんだ。でも、顔を見られてよかった」
ルイスの大きな手が、私の赤みがかった茶の髪を梳くように撫でる。
くるくると好き勝手に渦を巻くくせっ毛も、ルイスの手の中では妙に大人しい。
まるで髪の毛一本一本にまで、私の恋心が浸透しているようだ。
触れられてうれしい、と全身で感じている。
「そんなこと言って、疲れた顔をしているじゃない。お使いを終わらせたら少し休んだほうがいいわ」
私も手を伸ばして、ルイスの頬に触れる。
少し肌が青白いのは、私の見間違いではないはず。
去年、ラニアの六家の一つ、イーツ家の嫡男が、跡を継いだ。彼はルイスの一つ下だった。
ショーロ家のご当主様はまだお若いから、ルイスが跡を継ぐのは当分先だろうけれど、代替わりの時期は着々と近づいてきているのだ。
忙しいのだろうとわかってはいても、心配で、引き止めてしまいたくなる。
「庭にスズランが咲いたのよ。ルイスもお気に入りの東屋の近くに」
にっこりと笑んで、くいっと腕を引く。
それだけで私が何を言いたいのか、きっとルイスは察してくれる。
「まったく、おねだり上手だね、ニーナは。そして気遣い上手だ」
これをお届けしたらね、とルイスは私の望む言葉をくれた。
穏やかな日差しの下、我が家の庭は常と変わらず二人を歓迎してくれた。
バラのアーチをくぐった先、ひっそりとした東屋で、私とルイスは隣り合って腰を落ち着かせる。
東屋から見える小さな噴水と、周囲に咲く花々を眺めながら、ルイスは細く息を吐き出した。
「ここは静かでいいね」
「アンフィ家は賑やかだものね。私は好きだけれど、いつもあそこにいたら疲れてしまうのかしら」
ルイスには弟が二人いる。まだ成人していない下の弟はとても元気がよく、騒動を起こしてはルイスともう一人の弟が対処に走る羽目になっている。
ちなみに真ん中の弟ローリーはちょうど私と同い年で、ルイスに似て心優しく、ルイスと比べると要領が悪く、面倒事に巻き込まれることも多い。
実は私の上の姉もルイスと同年で、そういった偶然からアンフィ家との関わりは他の卿家よりも深い。
年齢差のある二人の婚約がすんなり決まったのは、卿家同士で反対する理由がなかっただけでなく、元からのつながりのおかげでもあった。
「疲れても、こうして癒やしてくれるお姫さまがいるから、大丈夫さ」
「もちろんよ、任せておいて」
「頼もしいな」
ルイスのグレーの瞳がゆるく細められ、愛しげに私を映す。
温度を持たない無彩色が、春の日差しのようにぬくもりを帯びる。
今、彼の瞳には私だけが存在している。
会話を続けることも忘れて、私はその優しい色に魅入った。
「ニーナ?」
そう、私の名前を呼んでくれる声が好きだ。
この国では姓や愛称、敬称付きではなく名前をそのまま呼べるのは、親兄弟や上司、そして許された一部の人に限る。
法などで定められているわけではないけれど、古くからの風習だ。
友人は私をニナと呼び、ただの知人はニーナ嬢やニーナさんなどと呼ぶ。
ニーナ、とルイスの声が紡ぐたび、彼への想いを再確認する。
私は、彼に名前を呼んでもらえる立場にある。
彼の名前を呼べる立場にある。
「おねがい、ルイス。キスをして」
口をついて出たのは、特権の行使。
ルイスは必ず叶えてくれる。
その確信があった。
「お姫さまの仰せのままに」
ルイスは、そう微笑んで。
手を伸ばして、私の頬に触れて、そっと。
額に、口づけた。
……やっぱり。
私は内心でため息をつく。
すぐに離れていく彼を惜しむように視線を絡めても、彼は微笑みを崩さない。
まるで、かわいい妹に向けるような。
あたたかい、優しいだけの瞳。
彼の微笑みが、彼の瞳が、愛しくて、憎らしい。
「ルイスは……」
自然とこぼれた言葉は、けれど続けられなかった。
ルイスは、私のことを、どう思っているの?
そんなこと、今さら聞くことはできない。
ルイスと私は、結婚を約束した婚約者。それが事実で、真実だ。
「……なんでもないわ」
愛のない結婚、というものが貴族には普通に存在していることを知っている。
それに比べれば私はとても恵まれているのだと理解もしている。
私はルイスに愛されている。疑うことなく断言できる。
だったら、それだけで充分でしょう?
納得してくれない心を、持てあましている。
ルイスは、私に優しい。
ルイスは、私に甘い。
それは子どものころからずっと。
婚約してからも、何年たっても、少しも変わらず。
何かおかしいな、と気づいたのはいつだっただろうか。
おねがい、と言う。ルイスは必ずうなずいてくれる。
いつも、いつも。
それが違えられたことはただの一度もない。
キスをして。
最初にそうおねがいしたのは、まだ十二歳のとき。
心臓が自分のものではないと思えるほどにドキドキしていたのを覚えている。
ルイスはそのときも、穏やかに微笑んで、そして。
同じように、額に優しいキスをくれた。
ニーナが大人になったら、ちゃんとしたキスをしてあげる。
不満を隠そうとしない私に、そんな甘い言葉を添えて。
大人って、いくつになったら?
私の問いに、ルイスはめずらしく答えてくれなかった。
ねえ、ルイス。
私、もう成人だってしたのよ。
子どものころから少しも変わらず、いつも微笑みながら私を見守っているルイス。
その瞳に、ただ優しいだけの愛情を浮かべて。
ルイスはいつまで、私を子ども扱いするつもり?