パリ、パリ、

「わからない……どうして……」

 紗月は呆然としたような声で、そうつぶやく。
 パリッ、と乾いた音が二人しかいない居間に響いた。
 俺はそちらに目を向けることなく、夏休みの宿題に手をつける。

「どうして私はこんな時間にポテチなんて食べているの……」

 パリ、パリ。紗月がポテチを食べる音は止まらない。
 今はもう日付をまたいでから数十分も経っている。
 いつもなら早く寝ろと叱ってくる親は、昨日から福引きで当てた温泉旅行に行っている。
 うるさい親のいない間にと、今日の紗月は好き放題していた。

「突然「ポテチ食べたい!」とか言ってコンビニ行ってきたからだろ」

 手を動かしながらも俺はツッコミを入れる。
 紗月がそう言い出したのは、日付をまたぐ直前だ。
 いくら自転車で五分もかからない距離にコンビニがあるとはいえ、バカじゃないだろうかと俺は思う。
 こんな時間に外出するなんて、襲ってくれと言っているようなものだ。

「これは策略だ! 誰かが私の身体を乗っ取って私を太らせようとしてるんだ!」
「バカじゃねぇの」
「ちーちゃんヒドイ!」

 紗月は近所迷惑になりそうな声量で俺をなじる。
 かと思うと、すぐにまたパリパリ音が聞こえてくる。
 話すか食べるかどっちかにしろ、と言いたくなるが、いつものことなので慣れてしまった。
 というか、男を「ちーちゃん」なんてかわいらしいあだ名で呼ぶほうがひどくないだろうか。
 いくら俺の名前が、千歳という元々女みたいな名前だったとしても。
 何年も前から変わらない呼び名にすっかり慣れて、文句を言うのも面倒になってしまっているとしても。

「どっちが。深夜にコンビニまで付き合わされた俺の身にもなれよ」

 はぁ、とため息をついて、横目で紗月を睨む。
 紗月はバカだけど愚かではなかった。
 こんな深夜に女一人で外に出ることの危険性を、一応は理解していたようだ。
 付き合わされた側の俺としては、そもそも外出自体をやめてくれ、と思うのだけれど。

「だって、か弱い女の子一人で出かけて、何かあったらどうするの?」
「か弱い女の子はそもそもこんな時間にポテチ買いにコンビニ行ったりしない」
「食べたくなっちゃったんだから、しょうがないじゃない」

 ケロリ、と紗月は言ってのけた。
 俺は再度、深いため息をつく。
 なんだか腹を立てているのがバカバカしくなってきた。
 どうせ、何を言ったところで紗月は変わらない。
 バカで考えなしで、いつも俺を振り回してばかりの、一歳年上の姉の紗月。
 深夜に唐突に甘いものやスナック菓子が食べたくなって買いに行くことも、スポーツ観戦に夢中になりすぎると俺の首をしめてくることも、料理上手なくせにたまに大きな失敗をしてそのたび俺が腹痛に悩まされるはめになることも。
 全部、紗月が紗月だから起きることで、それはきっとこれからも変わることはないんだろう。

「つーか俺にもよこせ」
「あっ、私のお金で買ったのに!」

 ひょい、とテーブルの上に広げられていたポテチをつまんで口に放り込む。
 宿題はさっきからほとんど進んでいなかった。
 もう今日は時間も時間だし、やめにしてしまおう。
 最初から、紗月と顔を突き合わせているのが気まずくて、手慰みにやっていただけのものだ。

「紗月が食う分減らしてやってんだよ。独り占めなんて脂肪フラグだろ」
「だれうまだよちーちゃん!」

 ツボに入ったのか、紗月はブハッと吹き出した。
 怒っていたはずなのにすぐに笑う。まったく忙しいやつだ。

「付き合ってやったんだから、少しくらいいいだろ」
「もう、しょうがないなぁ。許してあげます」
「なんでそんな偉そうなんだよ」

 俺がツッコミを入れても、紗月はにこにこと笑ったまま。
 いったい何がそんなに楽しいんだろうか。
 日々に不満だらけの俺には、紗月みたいに無駄に笑顔を振りまくことはできそうにない。
 真似するつもりもないが、生きやすそうだなとたまにうらやましくなる。

「でもちーちゃん、どうせ私が頼まなくてもついてきてくれるつもりだったでしょ?」

 全部わかってるんだよ、とでも言うように、紗月は微笑みを浮かべる。
 年上なんだと実感させられる、包み込むような笑み。
 一年の距離を突きつけられるようで、好きじゃないのに、目が離せなくなる。

「……さてね」

 俺は無理やり視線を剥がして、そっぽを向いた。
 本当のことなんて、誰が言ってやるものか。
 紗月に何かあったらと思うと居ても立ってもいられなくて、誘われるまでずっとそわそわしていただとか。
 コンビニに誘ってくれたことに心底ほっとしただとか。
 もしどんな危険があったとしても、紗月だけは守ってやる、なんていうバカみたいな覚悟を決めていただとか。
 どうせ、言ったところで紗月は俺の気持ちの半分も理解してくれはしないんだから。

「そんなお姉ちゃん思いのちーちゃんが私は好きだよ」

 ほら、知らないからそんなことが言える。
 朗らかでやわらかな表情で、無条件な信頼を瞳に宿して。
 目の前にいる義理の弟が、実は自分のことを一度も姉として見たことがないなんて、考えもしないんだろう。
 どうしてわざわざ宿題を居間でやってると思ってる?
 居心地が悪かろうと、それでも少しでも一緒にいたいんだって、鈍感な姉は知らないだろう。
 今すぐ狼になって、俺だって男なんだ、とその身体に刻みつけたくなる。
 紗月を傷つけるような真似が俺にできるわけがないって、わかっていながらも。

「……ほんと、俺の身になってほしいよ」

 くしゃり、と前髪を握り込んだ。
 情けない顔を見られたくなくて、そのままうつむく。
 ただの弟としか見られないことに、不満ばかりが降り積もる。
 だからといって、今の関係を壊すことも怖くて、身動きが取れずにいる。
 本当にわからないのは、自分がどうしたいのか、ということ。
 今のままは嫌だ、と思っている時点で、ほとんど答えは出ているようなものなのかもしれないけれど。


 パリ、パリ、と響く音は、ポテチを食べる音なのか。
 それとも、姉弟という関係にヒビが入る音なのか。

 姉弟の明日は、どっちだ?






「書き出し.me」にて書いたお話を加筆修正しました。元文はこちら。
書き出し:「わからない……どうして……」



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