シャラン、シャランと涼やかな音が聞こえる。
それは、舞姫の持つ鈴の音色。
神聖な鈴の音が一年の厄を払い、新たな一年へと向かう人々を祝す。
今日は年に一度のお祭り。
この村に住む人たちが、年を重ねる日。
めでたい日を暗い気持ちで迎える人なんて、きっとミルキくらいだろう。
今日、ミルキは十五の年を数え、大人になる。
――子どものミルキが、おわる。
陽が中天へと差しかかる、一時ほど前。
祭りから抜け出して、ミルキは村の脇の森へと分け入った。
今すぐに、行かなければならないところがあった。
年を取るのは、今日の正午だ。
それよりも先に、会わなければいけないと思った。
人間とは異なる理の下に生きる、きれいなきれいな彼の人に。
しばらく獣道を走ると、陽の光を浴びて輝く泉が見えてきた。
転びそうになる足をなんとか動かして、開けたところまで進む。
はぁはぁ、と自分の荒い息の音が響く。
森の中は、生き物なんてどこにもいないのではと思うほどに、静かな空気に満ちていた。
「シュイリュ! シュイリュー!」
泉に向かって、ミルキは声の限りに叫んだ。
もし、気まぐれにこの場を離れていたら。
正午までに会えなかったら、どうすればいいのだろう。
いや、それよりも。
もうすでに、彼の姿を見えなくなっていたら。
恐怖が、ミルキの声を大きなものにした。
「そんなに大きな声で呼ばなくても聞こえているよ、ミルキ」
すぅっと、まぼろしのように唐突に姿を現したのは、ミルキが望んだ彼だった。
シュイリュ。この泉に住む聖霊。
泉の上に浮かんでいた彼は、ふわりとミルキのすぐ目の前に降り立った。
「よかった、シュイリュ……」
薄氷色の長い髪。月のような銀の瞳。人間離れした整った容姿。
どれもいつもの彼で、変わらぬ様子に涙がにじんだ。
「泣きそうな顔をして、どうしたんだい?」
シュイリュはきょとんとした顔で、そう尋ねてきた。
本当に、いつもどおりだ。
ミルキがどれほど思い悩んでいたのかも、彼はきっと理解していない。
全身の力が抜けるような感覚がして、へたれこまないように足に力を込めた。
「シュイリュ、覚えていないの? 今日がなんの日なのか。わたしは今日、成人するのよ?」
「ああ……もしかして、年祝ぎ《としほぎ》かい? すっかり忘れていたよ。人の間に流れる時は、とても早いからね」
シュイリュは言われて初めて気がついたようだ。
その、どうでもよさそうな態度に、ミルキは大いに傷ついた。
シュイリュにとっては、ただの人間のミルキなんて、どうでもいい存在なのかもしれないけれど。
ミルキにとっては、シュイリュは家族のような……下手をすると、家族よりも大事な存在だというのに。
「わたし……わたし、もしかしたら、もうシュイリュと会えなくなってしまうかもしれないのよ」
ぽつり、と足元に視線を落としながらこぼした声は、震えていた。
正午まで、あと一時足らず。
もしかしたら、シュイリュとお話しできるのも、これで最後かもしれないのだ。
シュイリュのきれいなきれいな姿すら、二度と見えなくなってしまうかもしれないのだ。
どれほど嫌だと思ったところで、抗いようのない現実というものはある。
子どもの頃、村の長老から聞いた話が、シュイリュの不安を煽る。
「大人になったら聖霊は見えなくなる。まだそんな迷信を信じているの?」
「そういう人もいるって聞いたわ」
「いないわけではないけれどね。聖霊が見えるかどうかは、ほとんど先天的な体質だ。気にすることはないよ」
「可能性でも、嫌なのよ……」
声と共に、涙がこぼれ落ちた。
それは、堰を切ったようにあふれだして、止まらなくなった。
「わたし、シュイリュを失いたくないの」
目の前の、青年の姿をした聖霊に抱きついた。
胸元に顔をうずめると、清らかな水と爽やかな緑の香りがした。
落ち着く香り。大好きな香り。
この香りに、十年前のあの日も包み込まれた。
五歳のミルキは、親の言うことを聞かないお転婆娘だった。
それは、他の人には見えないものが見えていたことも関係しているだろう。
この世界に魔力を循環させるために存在している、聖霊。
彼らは一般的に手のひらに乗るほどの大きさで、透明な四枚の羽が生えている。
聖霊は、一定以上の魔力がある者や、聖霊と波長の合う人間にしか見えない。
ミルキは魔力は少ししかないが、波長が合うらしく、聖霊の姿が見える。
この村では、他に聖霊を見ることができる人間は長老くらいしかいなかった。
知識人の長老のおかげで、嘘つきと罵られることはなかった。爪弾きにされることもなかった。
けれど、変わり者という烙印を押されてしまうのは、当然のことだった。
不思議なものを見るミルキを親は持て余し、そんな親の言うことを聞く気にはならない、という悪循環だった。
そんなある日、ミルキは聖霊を追いかけて一人で森に入ってしまった。
森には大人と一緒でなければ行ってはいけない、と言われていたにも関わらず。
後先を考えられない幼かったミルキは、気づけば帰り道がわからなくなっていた。
次第に薄暗くなってくる森の中。もし獣と遭遇してしまったらどうしようか。
虫の鳴き声すら恐怖を煽って、ミルキは大声で泣き叫んだ。
そこに現れたのが、今と姿の変わらない、シュイリュだった。
普通の聖霊とは違う、人間と同じ背丈のきれいなきれいな聖霊は、うるさい、と顔をしかめていた。
文句を言いながらも、シュイリュは疲れて動けなくなっていたミルキを抱き上げ、村まで連れて行ってくれたのだ。
あの日ミルキを助けてくれたのは、気まぐれだったと、のちに彼は語ったけれど。
十年前の出会いから、ずっと、ミルキは彼のことが好きだった。
ずっと、傍にいたい。傍にいてほしい。
けれどそれは、叶わぬ願いなのかもしれない。
「……ミルキ、大丈夫だから」
その声は少しあわてているようだったけれど、ひどく優しく響いた。
シュイリュの手が、そっとミルキの背中をさする。
もう片方の手でミルキの頭をぽんぽんとなでる。
ミルキとシュイリュがここで初めてまみえたときよりも、格段に子どもの扱いが上手になっているのが悔しい。
「ミルキは大丈夫だよ。大人になっても、私の姿を見ることができる。私が保証するから」
「ほんとう……?」
ミルキが顔を上げると、シュイリュの細いきれいな指が、透明なしずくをすくった。
そのまま頬に手を添えて、もう片方の頬に口づけを落とした。
そんなことをするとは思いもよらず、驚きで涙が止まった。
シュイリュはくすりと笑って、また優しくミルキの頭をなでた。
「ミルキの気には、長く共に過ごした私の気が混じってしまっている。もし、他の聖霊を見ることができなくなったとしても、私の姿だけは絶対に見失わないだろう」
気がなんだと言われても、ミルキには難しいことはわからなかった。
それでも、大丈夫だと言われているのだけはわかった。
シュイリュ以外にも姿の見える聖霊はいる。けれどここまで心惹かれ、仲の良くなった聖霊はいない。
もし、シュイリュ以外が見えなくなったとしても。
彼が、ミルキの世界からいなくなってしまわないのなら。
ミルキはそれで充分だった。
「本当の、本当ね?」
「本当だとも」
ミルキの再度の確認に、シュイリュは鷹揚にうなずく。
シュイリュは言葉を省くことはあっても、嘘をついたことは一度もなかった。
なら、今回も大丈夫なのだ。
ミルキは、シュイリュを失うことはないのだ。
ようやっと、ミルキは心の底から安堵することができた。
「だから、今日は祭りを楽しんでおいで」
「うん、そうする」
ミルキは元気よく返事をした。
年に一度の祭りは、村民にとっては年一番の楽しみなのだ。
今年は楽しめるとは思っていなかったけれど、今からでも遅くはない。
同じく年を重ねて成人する友人と一緒に、飲んで食べて踊って笑って、楽しまなければ。
「また来るわ、シュイリュ」
ミルキはシュイリュに晴れやかな笑みを向ける。
それに、彼も同じように笑い返してくれた。
万の蛍の光を集めたかのような、眩しくて幻想的で美しい微笑み。
きれいなきれいな聖霊に、ミルキは思わず見惚れてしまう。
「またね、ミルキ」
絶世の美貌が近づいてきて、額に口づけられた。
もう、ミルキは照れなかった。
その触れ方がとても優しくて、子どものミルキへの最後の言祝ぎのように思えたから。
今日は、優しい優しいおわりの日。
そうして今日、新たなはじまりがやってくる。