異世界トリップというものをしてしまってから、早一年が経とうとしていた。
この世界にはけっこう異世界人が来るらしく、元の世界でいうとこの留学生バリに受け入れ体制はバッチリで、住む場所や仕事なんかはわりかし簡単に手に入った。
お風呂の問題もおトイレの問題も他の汚物の問題も、楽々だったりちょっと問題はありつつだったりしつつもクリアして。
一番クリアするのが難しかった食の問題も、一応今のところはなんとかなっている。
元の世界に残してきた家族や友だちを思うと、今でも泣きそうになるけど、考えてもしょうがないことはとりあえず脇に置いておくことにしている。
今、私にできることは、面倒を見てくれることになったおじさんおばさんのために、しっかり働くことだった。
私を引き取ってくれたのは、家族経営で商人をやっている家だった。
こっちに来たとき十六歳だった私は、数学が得意だった。もちろん習ってない範囲まではわからないけれど。
数字に強い、ということで、そっち方面の仕事につけるよう、国が探してくれて。
それで手をあげてくれたのがおじさんおばさんだった。
地理がわからないのに通うのは大変だろうから、と住み込みで。
おじさんとおばさんはとても親切で、何かと世話を焼いてくれて、私のことをもう一人の子どもみたいにかわいがってくれている。
おじさんおばさんには三人の子どもがいて、三人とも私より少し年上なんだけど、けっこう仲良くできていると思う。
中でも一番年の近い、二つ上のロウさんには、計算のコツなんかをよく聞かれるから、即席教師になったりもしていた。
なんて、この世界に来てからのことをちょっと思い返したりしながら、店の奥で帳簿のチェックをしていた。
毎朝早くから仕事を始めるのは、私の日課だった。
体質的なものなのかなんなのか、私は朝のほうが頭がよく回る。
一番大切なチェックなんかは、こうして朝に回すことが多い。
うん、大丈夫、今月もしっかり黒字だ。
にんまりしていたら、バーンと店の扉が開かれた。
「ナンナ!」
「スーズ!?」
元気よく響いた声は、聞き覚えのあるもの。
毎日訪ねてくる彼だけれど、今日はいつもよりも早かった。
他人に見られちゃたまらんととっさに閉じていた帳簿をかたして、私は店先まで出る。
そこにいたのは、褐色の肌に紫色の髪色をした青年。名前はスーズだ。
ちなみにナンナとは、私のこと。本当は菜那だけれど、発音できないらしくてみんなにナンナと呼ばれている。
「おはよう、スーズ」
挨拶しつつ、こっちに来ようとしていたスーズを、奥に入る直前のところで押しとどめる。
親しき仲にも礼儀あり。関係者以外立ち入り禁止なのです。
スーズは少しだけ不機嫌そうな顔をしたけれど、それを一瞬で引っ込めてすぐに笑顔になり、持っていたものをずいと差し出してきた。
「はい、これ、今日の分。取れたてのナスだ」
スーズが持っていたのは、黒光りの美しい正真正銘のナスだ。
元の世界で私がよく目にしていたナスの倍の大きさだけれど、こっちでは一般的に流通している普通のナスだ。
スーズの家はナス農家だ。ナス以外にも作っているらしいけど、ほとんどナス。何度か見せてもらった畑は一面ナスだった。
毎日、私が朝早くから仕事しているときに、こうやって取れたてのナスを届けてくれる。
それはたいてい私のその日のご飯になるんだけども。
とてもおいしそうでも、私は今、それを受け取るわけにはいかない。
「ごめんなさい、スーズ。今日の分はもうロウさんにもらっちゃったの」
昨日の夕方、家に帰ってきたロウさんは、今のスーズのように私にナスを差し出してきた。
ロウさんが私にナスを買い与えるのはたまにあることだ。
彼は『別に邪魔をするつもりはないんだけど、ちょっとおもしろくないから』とか、私には理解できないことを言いながらナスをくれる。
「そんな……」
ナス一つで、スーズはこの世の終わりみたいな顔をした。
スーズはいつもオーバーリアクションだ。
だって、ナスだよ? たかがナスだよ?
もしかして、スーズの家ではナスが余りまくってるんだろうか。軽くトラック一杯分とか。
いや、それだったら一つ受け取りを断られたくらいでめげてちゃどうしようもないだろう。
別に、今受け取っておいて、明日食べてもいいんだけれど。
前にそれをしようとしたとき、スーズに怒られたのだ。
ナス農家としての誇りが許さないとかなんとかで。
収穫したその日に食べてもらわなきゃ誇りが傷つくなら、出荷のときはどうしてるんだか。
買った人みんながその日に食べているわけじゃないのは、スーズもわかっているはずだ。……わかってる、よね?
「ナンナ、いつも言っているだろ? ナンナの食べるナスは、全部オレが用意するって。ナンナはオレの作ったナス以外は食べちゃダメだって」
この上なく不機嫌そうな顔でそう言うスーズは、まるで駄々っ子のようだ。
とてもじゃないけど五歳も年上の男性とは思えない。
家が農家で、自然に囲まれて育ったせいか、スーズはよく言えば純粋、悪く言えば子どもだった。
「そんなこと言っても、好意でもらったものを無駄にはできないでしょ?」
「ロウのヤツはナンナを狙ってるんだ! 隙を見せたら食べられるぞ!」
食べられるのはナスで、食べるのはむしろ私のほうだ。
「あのね、スーズ。私も何度も言ってるけど、狙ってる人間にナスは贈らないからね」
好きな異性にナスをプレゼントする男なんて、聞いたことがない。
見て、このナスの色つや、きれいだろう? こんなに君にぴったりの野菜もない。君に贈るならこれしかないって思ったんだ。
そんな妄想が一瞬で頭を駆けめぐって、あまりのばかばかしさに私はため息をついた。
「そんなことない。現に……」
「現に?」
「お、お、オレが……!」
「オレが?」
私が聞き返すと、スーズの顔が真っ赤になっていく。
まるでトマトのようだ、と私は思った。こっちの世界のトマトは真っ青なんだけどね。
「……っ、もう、いい!!」
スーズは強引に話を打ち切って、店から出ていこうとする。
扉を開けたところで、スーズは振り返って私を見た。
睨みつける、と言ってもいいくらいの眼力で。
「ナンナ、約束だからな! もうオレのナス以外は食べるなよ!」
「スーズ……」
私が何か言うよりも先に、スーズは店を出ていった。
残された私は、わけがわからないよ、というのが正直なところだ。
何がそこまでスーズをかき立てるんだろうか。
一方的な約束を取りつけられたのは、これが初めてではなかった。
スーズはなぜか、私に自分の――正確には自分の家で、だけれど――作ったナスを食べさせることにこだわっている。
スーズの剣幕は、毎日私に自分のナスを食べてもらわなければ死ぬ病気にでもかかっていると言われたほうが、まだ納得できた。
謎だ。謎すぎる。一生解ける気がしない。
でも、まあ。
「食費が浮くのはいいことよね」
私はそう納得して、帳簿のチェックを再開した。
* * * *
そもそも、なぜナスなのか。
不思議に思っている人も多いだろうと思う。
それは、この世界の食事情が密接に関係していた。
この世界と私の住んでいた世界で違うところは、たくさんある。
元の世界ではフィクションでしかなかった魔法があったり。
元の世界ではありえない髪や瞳の色の人がいたり。
そして……この世界で一般的に食べられている野菜も、元の世界とは違う色や味をしていたのだ。
この世界に来て初めて食べたサラダは、魔界の食べ物かと思った。
真っ青なトマト、真っ黒いレタス、真紫のピーマン、真っ赤なブロッコリー。
味なんてわからなかった。
このとき私は、味覚は脳が認識しているものなんだ、ということを強く実感させられた。
普段食べているものと色が違えば、それだけで脳は混乱する。
砂をかむような思いで食べ、飲み込んで……吐いた。
その食事で唯一食べられた野菜は、色も味も元の世界と同じ、焼きナスだけだった。
聞いたところによると、トマトは苦く、レタスはしょっぱく、ピーマンは甘く、ブロッコリーは辛いらしい。
その後も何度か食べる機会があったけれど、全然わからなかった。
肉や魚、穀物や調味料。野菜以外はそんなに変わらないのに、なんで野菜だけこんな奇想天外な色と味をしているのか。
いや、この世界の人にとってはそれが普通。おかしいと感じるのは異世界人の私だけ。
郷に入りては郷に従え。しょうがないことと理解はしている。
実は、最初に私を保護してくれたのは、スーズの家だった。
というのも私が現れたのがナス畑で、私の第一発見者がスーズだったからだ。
スーズの両親はすぐに国に届けを出してくれて、身の振り方が決まるまで面倒を見てくれた。うちの子になってもいいよ、と言ってくれたほどだ。
ナス農家なんだから、当然食事にも毎食のようにナスが出た。
だから私はナスばっかり食べていた。
元々、肉とか魚よりも野菜のほうが好きだったから。
そして、お腹の調子を崩した。
元の世界ではほとんど台所に立つことのなかった私は知らなかった。
ナスは栄養分が低く、水分が多く含まれている野菜らしい。
摂取のしすぎは、下痢の原因になる。
そりゃあ水ばっかり飲んでたらおトイレが近くなるのは当たり前だ。
あのときはスーズが心配のしすぎで真っ青な顔になってたっけ。
そんなことがあって、私はナスの摂取量を制限された。
一日一本。現代日本でよく見るサイズで言うなら、だいたい二本から三本分。
ちゃんとナス以外の野菜も食べなさい、と。
スーズの家の人や、私を引き取ってくれたおばさんはがんばってくれた。
ナス以外の野菜の調理法をあれやこれやと考えてくれたのだ。
形が残っているものはまず無理。細かく切って、野菜の色がわかりにくくなるように色のついた調味料と一緒に煮たり炒めたり。
もちろんお世話になってばかりじゃ悪いからと、私も料理を手伝うようになった。
元の世界で台所に立ったことなんて数えるくらいしかなかったから、最初は苦労したけど、今では自分一人でも簡単なものなら作れるようになっている。
住み込みで働いてる家には、ナスが嫌いな人がいるから、私が食べる分のナス料理は今は自分で作っていた。
ナス以外の野菜を試行錯誤してなんとか食べられるようになっても、ナスはやっぱり特別で。
この世界に慣れてきた今でも、毎日食べないと落ち着かなかった。
一日一つのナスが、私の生命線にも等しかった。
だから、その朝いつものように店に訪ねてきたスーズの言い出したことに、私はビックリしたのだ。
「ナンナ、今日は好きなだけナスを食べていいぞ。オレが許可をもらってきた」
「スーズ……どうして?」
両手で抱えている紙袋いっぱいのナスと、その言葉に、私は目を丸くした。
スーズの腕の中、大きなナスがきれいに黒光りしている。
つやっつやで、いかにも鮮度がよさそうで、素揚げにして食べたら頬が落ちるほどにおいしそうだ。
いや、薄く切って焼いてもいい。肉団子と一緒に蒸すのもいいかもしれない。
それを、今日は食べたいだけ食べられる?
ここはどこの桃源郷だ。
「今日は、ナンナがこの世界に来てちょうど一年だ。本当はもっとちゃんと祝いたかったんだが……オレは、ナス農家だから、ナスしか贈るものが思いつかなかった」
少し気恥ずかしそうにうつむいて、スーズは言う。
覚えていてくれたんだ、と私は心がぽかぽかとあたたかくなっていくのを感じる。
彼の家から出ても、毎日こうして会いに来てくれるスーズ。
自分のナスしか食べちゃいけない、なんて子どもみたいな駄々をこねるスーズ。
私のことを誰よりも心配してくれて、誰よりも気にかけてくれるスーズ。
ナスは異性へのプレゼントとして、一般的にはおかしいけれど。
スーズのくれるものなら、たとえナスでも、いや、ナスだからこそうれしかった。
「ありがとう、スーズ。うれしい。味わって食べるね」
私は心からのお礼を彼に告げた。
お腹を壊しても気にするものかと思った。
元から嫌いではなかったけれど、この世界に来てから、ナスが大好きになった。
だって、ナスだけだ。ナスだけが同じ色で、同じ味をしていた。
ナスだけが、私の味覚で正確に認識できる野菜なんだ。
まあ、たぶん一日くらいじゃお腹を壊したりはしない……と思うけども。
「ナンナ、その……」
「スーズ? どうかした?」
まだ何か言いたそうなスーズに、私は首をかしげる。
スーズは抱えていたナスを脇に置いて、まっすぐ私に向き直った。
ナスのように黒光りする濃紺の瞳が、熱を持っていた。おいしそうだ。
「オレが、ナンナをしあわせにしてやる」
まるでプロポーズのような発言に、私は目をぱちくりとさせた。
スーズは真剣な顔をしているし、なんだかその頬は赤いし、これはもしかするともしかするんだろうか。
とっさにうなずきそうになったところで、スーズはさらに続けた。
「オレが一生ナスを食べさせてやるからな!」
握りこぶしを作っての、その言葉。
ああ、と私は深く納得した。
そうだよね。純粋で子どもっぽいスーズだもんね。
ナス農家だもんね。
「あはは、ありがとう」
私は笑ってもう一度お礼を言った。
脱力した感はいなめないけど、それよりもなんだかおかしくなってきた。
きっとナス農家の誇りとかそのたぐいのものだろう。
スーズのわけのわからないこだわりは、わけがわからないなりに、私を必要としてくれていることを感じさせてくれる。
だから私は、スーズのナスが一番おいしいと思うし。
私を必要としてくれるスーズのことが、好きだなって思う。
まあ、そんなことは、今はまだ内緒だけどね。
そして、私が思い違いをしていたことがわかるのは、そのたった数日後。
『ナンナ、結婚式はいつにしようか』と、スーズが聞いてきたその時だった。
スーズはスーズで、ちゃんとプロポーズをしたつもりでいて、私はそれに応えたものだと勘違いをしていたらしい。
勘違いだったと気づいたスーズが羞恥心ゆえに会いに来てくれなくなったり、そのせいもあってスーズは本当に私のことが好きなんだろうかと悩んだり。
色々と問題は絶えないんだけれども、終わりよければすべてよし、ということで。
めでたしめでたし、でナスのお話は終わりなのでした。