名前を呼んで

 保健室。ベッドに横になる男子と、その前に座る女子。
 とくれば甘酸っぱい恋の予感でもしそうなものだけれど、あいにくとそんなことはない。
 というか、こいつと恋だなんだなんて、死んでも嫌だ。

「私が悪かったです。ごめんなさい」

 私は顔が見えないように頭を下げた。
 いくら表情がわからなくても、この上なく棒読みだったことはバレバレだろうけれど。
 だって、本当なら謝りたくなんてないのだから。

 彼が保健室のお世話にならなきゃいけなくなったのは、私のせいだ。
 階段の途中で、私が彼を突き飛ばしたから。
 数ヶ所の打ち身と捻挫。保健室の先生が言うには全治二週間程度。
 なのに私が謝りたくない理由は、私が彼を突き飛ばしてしまった状況にある。
 危ないとわかっていただろうに、階段の途中で私に抱きついてきたのは彼のほう。
 恋人でもないのに、むしろ私は彼のことが嫌いなのに。
 セクハラだと怒って当然なはずだ。
 今回のことは、場所が悪かっただけ。自分は悪くない。
 私はそう思い込もうとした。

「感情はどこに置いてきたの?」

 彼は楽しそうに笑って聞いてきた。
 痛みなんて感じていなさそうな様子に、わずかにあった罪悪感も消えていく。

「あなたと一緒が嫌で逃げ出しました」

 ああ言えばこう言う、を地で行く答え。
 自分でもこの理由はないなぁと内心で思う。
 それでも、ある意味で事実でもある。
 彼に対して感情をむき出しにすることは、なんだか負けたような気になって嫌なのだ。
 クールに、スマートに対応したかった。

「……本当に飽きないな」

 彼のつぶやきに、私は眉をひそめた。
 やめてくれ。できることなら今すぐ飽きてくれ。
 からかわれるのも、変に興味を持たれるのも勘弁してほしい。

「ねえ、この怪我、君のせいでもあるよね?」
「…………」

 思わず私は黙り込んだ。
 否定できなかったのは、彼の言いようが、自分の非を認めた上でのものだったからだ。
 さすがにそう言われてしまえば、私も自分の過失から目をそらすことはできない。

「一つお願い聞いてよ。
 そしたら、怪我のことは忘れてあげる」

 彼はにっこりと笑う。
 まるで悪魔の微笑みだ、と私は思った。

「……お願いってなんですか」

 それでも、聞かないわけにはいかないだろう。
 叶えるかどうかは別として。
 ……無理難題だったら即座に却下してやる。

「名前、読んで」

 変に気負っていた分、その内容はすごく簡単なことのように思えた。
 それくらいなら、とうなずいてしまった私は、このときはまだ知らなかった。
 名前を呼ぶということが、どんな効果を発揮するのかを。
 主に外側に対して。そして、多少、内側に対しても。

 名前で呼び合う男女を、周りがどんな目で見るのかを。
 個人を識別する名前を呼び慣れてしまうことが、どんな心境の変化をもたらすのかを。


 気づいたときには、もう、手遅れだった。



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