1.血の味のファーストキス

 たいていのことは、一人でなんとかしてきた。
 素直に大人や友人を頼れるほど、自分はかわいい性格をしていなかったから。
 だから今日も、朝から少し体調は優れなかったけれど、なんとかなると思ったのだ。
 でもこれは、さすがに無理かもしれない。



「はぁ……やばいかも」

 グラグラと揺れる視界に、ルミはとうとうその場にしゃがみこんだ。
 さっきからずっと、ひどい頭痛がする。胃がバク転をしているんじゃないかというくらい、気持ち悪い。身体がほてっている気がするのに、手足は驚くほど冷たく、うまく動いてくれない。少し歩いただけで息切れするし、のどがカラカラと乾いている。骨がきしむような痛みすら感じる。
 いくつもの病気に一気にかかったかのような症状に、ルミは泣きたくなった。
 サトさんに頼まれた買い物はなんとかできたけれど、この荷物を持って施設まで戻れるかどうか、自信がなかった。
 ルミには親がいない。物心ついたころから施設育ちだ。サトさんは施設の職員の一人で、みんな気軽にそう呼んでいる。
 今日は友だちと遊びに行くからと、帰りについでに買い物もしてくると買ってでたのだ。
 気を使ってくれたのか、それほど大きな物は頼まれなかったものの、細々としたものでも少しは重量がある。
 そもそも荷物がなくても帰れるのかどうか、怪しい。それくらいの具合の悪さだ。
 いつ、意識を失ってもおかしくないような気がする。むしろまだなんとか意識を保っていられているのが不思議なくらいだった。

 最近、具合が悪くなることが増えたな、とは思っていた。
 めまいがしたり頭痛がしたり、気持ち悪くなったり熱が出たりと。
 学校には根性で行っていたけれど、早退させられたことだってあった。
 病院に行ってみても、原因不明。単なる風邪だろうと診断された。
 ただの風邪で、ここまで具合が悪くなるものなんだろうか。ルミにはそうは思えなかった。
 不調が続いていたせいで、だんだんと痛みにも慣れ始めていた。
 けれど、ここまでひどいのは初めてだった。

「……平気か?」

 ふわふわとする意識の中、男の人の声がした。
 それはたぶん、うずくまっているルミに向けられているもの。
 気力をふりしぼって顔を上げると、今まで見てきた男の中で一番格好いい、と言いきれるほどの美青年がいた。
 美しいと言うよりは、野性味あふれているイケメン、といった感じか。
 そのイケメンはルミの顔を見て、目を丸くしていた。
 そんなに驚くほどルミは顔色が悪いんだろうか。

「ちょっと休めばよくなると思います。
 心配おかけしてすみません……」

 とてもそうは思えなかったけれど、ルミはそう言った。
 嘘も方便だ。見ず知らずの人に迷惑をかけるわけにはいかない。
 心配かけないように微笑んで見せたものの、その笑みは歪んでいたかもしれない。

「血が足りてないんだな」

 青年の言葉にルミは首をかしげた。
 血? 鉄分不足ということだろうか。
 それくらいでこんなに具合が悪くなるものなのか、栄養学に詳しくないルミにはわからない。
 ぼんやりとするルミを青年はいきなり抱き上げた。

「あ、あの……!」
「おとなしくしてろ」

 そう言われてしまえば、具合が悪くて自分では動けないルミはどうしようもない。
 知り合いが通りかからないことだけを願って、おとなしく青年に運ばれる。
 青年に連れて行かれたのは、帰り道の途中にある森林公園だ。
 夕日が地平線に沈もうとしているこの時間、人の姿はどこにも見えない。

「……ここならいいか」

 青年は小さくつぶやいて、ルミを芝生の上に下ろす。
 なぜベンチのあるような遊歩道ではなく、木と草に囲まれた場所に下ろすのか。
 青年が何を考えているのか、ルミにはわからなかった。

「オレの血をくれてやる。
 だからその死にそうなツラ、どうにかしろ」

 ルミを見下ろしながら告げられた言葉は、とてもじゃないけれど理解できるものではなかった。
 血をくれる? どうして? どうやって?
 それは、輸血という意味だろうか。それ以外ルミには思いつかない。
 けれどいきなりそんなことを言われても、困るだけだ。

「あの……大丈夫ですから」
「大丈夫そうに見えねぇから言ってんだろ。さっさと飲め」
「飲む……!? そんなこと、できるわけありません!」

 青年の言葉に、ルミは驚愕して大声を上げた。
 そのせいで頭痛が余計にひどくなって、ルミは頭を押さえる。
 涙まで出てくるような痛みを耐えていると、

「オマエ……もしかして、わかってねぇのか?」

 青年が訝しむように聞いてきた。

「何が……ですか」
「自分が吸血鬼だってこと、だよ」
「は……?」

 目が点になる、というのはこういうことを言うんだと実感させられた。
 それくらいにルミは驚いたし、何をバカなことをと思った。
 吸血鬼? それはよくファンタジーものやホラーものの題材になっているアレだろうか。
 まさか普通に暮らしていてその単語を聞く日が来ようとは思いもしなかった。
 この青年は頭がおかしいんだろうか。イケメンなのに残念だ。

「オマエは正真正銘の吸血鬼。本来なら魔界の住人だ」

 吸血鬼の次は、魔界と来たものだ。
 もう何に驚いていいのかわからない。

「あたしは人間です」
「ちげーよ。ったく、めんどくせぇ。ガキんときにはぐれて人間に育てられたのか」

 ブツクサと横を向いてつぶやく青年は、頭をかきながらため息をついた。
 ルミの前にしゃがみこみ、目線を合わせてくれる。

「オメェは吸血鬼だよ。今死にかけてんのがその証拠だ」
「死にかけてなんて……」
「どんくらい真っ青な顔してんのか、自分じゃわかんねぇのかもしんねぇけどな。
 オマエが渇ききってんのは見りゃわかんだよ」

 その言葉に、ルミは思わず自分の顔に手をあてた。
 冷たい手がほてった頬を冷ましてくれる。顔は熱いのに、真っ青ということは血の気が引いているんだろうか。それは矛盾している気がする。

「こっちで暮らしてて、人間だと思ってたんなら、血なんて飲んだことねぇんだろ。
 それでよく今まで生きてけたよな」

 感心するように言われても、ルミには答えようがない。
 ルミは人間だ。そのつもりで生きてきた。
 ここまで来ても青年の言っていることは理解できないし、やばい人に絡まれているんじゃないかという気さえしている。
 けれど青年は、ルミを一番最初に心配してくれた。
 あそこでうずくまるまでの道のりで、誰一人ルミに声をかけた者はいなかったのに。
 口は悪いものの、悪い人ではないんだろう、とルミは思った。
 ただ少し、残念な頭をしているのかもしれないが。

「細けぇことはいいから、とりあえず飲め。ほら」

 そう言って、青年は爪で自分の腕を傷つけた。
 どうやったらそうなるのか、ピーッときれいに赤い線ができ、それはすぐに盛り上がって、血が流れた。
 ヒッ、とのどが引きつるような音が出た。
 簡単に自分を傷つけられる青年にも、目の前に流れる血にも、ルミは動揺させられた。
 けれどその赤色を、ルミはなぜだか懐かしいと感じた。
 血を見たことがないわけではないが、身近なものでもない。
 どうしてだろう。これまで一度も、そんなことを思ったことはなかったというのに。

 血が、おいしそう、だなんて。

「……む、無理ですっ! 血なんて、そんな!」
「死にたくねぇなら飲め!」

 自分の感じた衝動を認めたくなくて、首を横に振るルミに、青年は声を荒げる。
 無理やりにでも飲まされそうな雰囲気に、ルミはすでに涙目だ。
 いきなり吸血鬼だ魔界だなんだと言われ、それを理解する前に血を差し出されれば、困惑もするだろう。
 頭痛はひどいし吐き気もする。いろんなところが痛くて、どこが悪いのかわからないくらいに身体は不調を訴えている。
 死にかけ、というのももしかしたら間違いではないのかもしれない。
 だからといって、血が飲めるかといったら別問題だ。

「……ったく」

 青年は何を思ったのか、腕を自分の口元に持って行き、血を口に含んだ。
 それは見ているだけで気持ちの悪い光景だった。
 のどがカラカラと乾いている。本当は渇いているのだけれど、かたくななルミはそれを認めたくはなかった。
 唇に血のついた青年が、ルミに目を向ける。
 氷のように冷たい目をしている、となぜかルミはそのとき思った。
 その瞳を見つめているうちに、距離は近づいていき。
 気づいたときには、ルミはあごを取られ、口づけられていた。

 こじ開けるように唇を割る舌に、流し込まれる血。
 吐き気を覚えても、青年は口を離してくれない。のどを上向けられ、嚥下させられた。
 気持ちが悪いような、もっと欲しいような。不可思議な葛藤が自分の中に生まれ、ルミは混乱する。
 ドクドクと血が巡っていく音が聞こえる。痛いくらいに耳鳴りがする。
 細胞が作り変えられていくような、そんな違和感。
 全身が、青年の血を得て歓喜しているようだ、とぼんやりと思った。

 薄れていく意識の中で、場違いにも、ルミの心をしめる恨み言があった。


 ファーストキスが血の味なんて、あんまりだ。



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