実技テストの結果が思わしくなくて、私は裏庭でこっそり落ち込んでいた。
ここはお気に入りの場所だ。雑草が好き勝手に伸びまくっているだけだから、普段は誰も来ない。
ベンチなんて高等なものもないから、壁の段差のところ腰かける。
一人反省会を開くには、ちょうどいい場所。
……だったはずなのに。
カサリ、という草を踏む音に振り返れば、そこにいたのは同じクラスの男子だった。
ここで人と出くわしたのは初めてのことだ。
とっさに反応できずに呆然と見上げていると、彼はにっこりと笑った。
「花のせせらぎ」
そうして、開口一番に意味不明な言葉を口にした。
わけがわからずに私は眉をひそめる。
からかわれているんだろうか、という考えが頭をよぎった。
「何、それ」
「君に必要なもの」
薄茶の髪をなびかせ微笑む彼は、変人と称される同級生。
けれどその才は並ぶ者がなく、紙一重という言葉の意味を教えてくれるような人だ。
実技テストで先生にお小言をもらってしまうような私とは、何もかもが違う人。
努力しなくてもなんでもできる彼には、私の気持ちなんてわからないだろう。
どこかに行ってほしくて、私は力いっぱい睨みつけた。
悔しいなんて、妬ましいなんて、そんな醜い感情を覚えさせないでほしかった。
「意味がわからない。せせらぎっていうのは、水の流れる音のことでしょう? 花のせせらぎって何よ」
「想像力を働かせてごらんよ。花の流れる音を聞いてみるといい」
「そんなの聞こえないわよ」
彼の言葉をバッサリと切る。
花は流れない。花は液体ではないから。
流れるとしたら、小川に落ちた花などで、それはただの水の音でしかない。
水の音は水の音。花のせせらぎなんてものにはならない。
つまり、花のせせらぎというものは存在しない。
「君の言の葉には遊び心が足りない。事実だけを端的に述べていて、想像を働かせる余地がない」
彼は、やれやれといったふうな顔をして、そんな指摘をしてきた。
言われたくないことを言われ、私は思いっきり顔をしかめた。
それくらい、自分が一番理解している。
どうやら彼は、私の実技テストの結果を知っているようだ。
だからこんな助言らしきものをよこしたんだろう。
大きなお世話だ、と私は思った。
稀代の言術師の卵に、哀れまれたくなんてない。
「それが、何? 嘘をつくよりは百倍マシでしょう?」
どうしても、声が刺々しくなってしまうのを抑えられなかった。
言術《ことじゅつ》は嘘つきの使う魔術だ、と悪しざまに言う人は少なくない。
言の葉に魔力を込めて放ち、嘘すらも真にする、と。
嘘は嫌いだ。嘘によって傷つく人がいるから。
かつて母さんは、父の嘘に苦しめられた。ずたぼろに傷つけられた。
そんな母さんの姿を見て、私は絶対に嘘をつかないと決めた。
嘘はつきたくなかった。誰も、傷つけたくなかった。
……だから、言の葉が硬いと先生にも言われてしまうのかもしれない。
「そんなことでは言術は習得できないよ」
静かな声が、事実を告げる。
わかっている。そんなことくらい。
私にはきっと、言術は向いていないって。
でも、母さんと約束したから。
言術師になると。言術師になって、そして……。
「しょうがないなぁ、見ててごらん?」
彼はやわらかな表情を浮かべ、人差し指を振る。
こっちに注目して、と言うように。
それから、両手を広げて何度か大きく息を吸って、
「花のせせらぎ。雨の合唱。空の地図。風のささやき。水の微笑み」
彼はゆっくりと言の葉を紡ぎ、それによって術がいくつも同時に展開された。
宙に鮮やかな薄紅色の川が描かれ、水の音にも葉擦れの音にも聞こえる音がして。
雨粒が奏でる静かで心に染みるような音楽が聞こえてきて。
青と白のコントラストがまぶしい、地図のような一枚の紙が私の手元に降ってきて。
こそこそと楽しく内緒話をするようなやわらかな風が吹いて。
彼の手のひらの上に出現した水が散って、まるで微笑むように優しくキラキラと輝いた。
「ねえ、わくわくしてこない?」
水の粒と同じように、キラキラとした笑顔に魅せられる。
その笑顔すら魔法のように、私には見えた。
彼の言の葉は、私を傷つけるものではなかった。
ガチガチに固まっていたはずの私の心すら浮き立たせる、素敵な魔法が込められていた。
ああ、本当に彼は天才なんだ。
これだけの差をつけられると、妬ましさすら忘れてしまう。
言術は人をしあわせにする魔法なんだよ、と。
母さんの言葉を唐突に思い出した。
あんなきれいな言術を見せられたからだろうか。
彼の言術が、私の目指しているものなのかもしれない。
「……ねえ」
私は、緊張にゴクリとつばを飲み込んだ。
これから言うことは、いつもだったら絶対に言えないようなこと。
けれど、自分の夢を叶えるためなら。
私にとっての理想の、人をしあわせにする言術を修得するためなら。
つまらないプライドなんて、ゴミ箱に捨ててしまおう。
「私に、言術を教えてくれない?」
私の言葉に、彼は太陽のように朗らかな、心をとろけさせる笑顔を見せた。