あ。
と、わたしは思わず声をもらした。
空を見上げたまま、あんぐりと口を開く。
冷たいものが顔にも落ちてきて、反射的にまばたきした。
「今年、はじめて、だよね」
それどころか、たぶん最初で最後。
わたしの住む地域は、冬は空っ風ばかりで、もう数年それは降っていなかった。
だから、めずらしすぎて、ついついぼんやり眺めてしまう。
さっきまでのイライラしていた気持ちも、不安になっていたことも忘れて、ただ音もなく地面へと吸い込まれていく綿毛のようなそれを目で追う。
ゆっくりと、でも確実に、公園が、遠くの街並みが、白く染め上げられていく。
これが今日じゃなくて、明日か明後日だったらよかったのに。なんて、わたしは思った。
そうしたら、ホワイトクリスマスだねって彼と笑い合えた。
その彼の都合で、今日デートすることになったんだけど。
しかも今日に決めたのは彼なのに、現在待ちぼうけを食らっているんだけど。
もう三十分以上、ここで待っている。
本当だったら、今ごろあたたかい映画館に入って、席に座ってポップコーンを分け合っているはずだったのに。
ああ、でも。
もしそうなっていたら、このきれいな景色には出会えなかったんだな。
そう思うと、彼が遅刻してくれたことは、幸いなのかもしれない。
「美紗!」
名前を呼ばれて、そちらに顔を向けると、恋人の拓斗が走ってきていた。
子どもみたいな満面の笑みで、キラキラと瞳を輝かせて。
デートに遅れてきて、その顔?
でも、その理由も理解できてしまって、わたしは苦笑する。
「すごいな、これ! 急に降り出してビックリしたよ」
空を振り仰ぎながら、拓斗ははしゃいだ声を出す。興奮が伝わってくる。
気持ちはわかるけれど、それはデートに遅れてきた人が最初に言う言葉ではないよね。
わたしは座っていたベンチから腰を上げて、怒っているぞというポーズとして睨んでみせた。
「遅れてごめんなさい、は?」
「……あ、ごめん!」
拓斗はハッとしてあわてて謝った。
言われて初めて思い出した、という様子だ。
笑顔は消えて、顔が真っ青になっている。
自分の出会い頭の言葉と表情がよくないものだったことに、遅れて気づいたらしい。
いつもなら、反省の色が見えない、と怒るところだっただろう。
でも今は、そんな気もなくなってしまう。
「お空の気まぐれに免じて、許してあげる」
わたしは宙を指さしながら、そう告げた。
拓斗は指の先に視線を向けてから、表情を和ませる。
それでもまだ申し訳なさそうにしているのは、冬に三十分以上も待たせるということがどれだけひどいことなのか、自覚しているんだろう。
「寒かったよね? ほんとにごめん」
言いながら、拓斗はわたしの身体をぎゅっと抱きしめる。
走ってきた拓斗の身体はあたたかくて、熱に包まれたわたしはほっと息をついた。
湯たんぽの熱に気がゆるむのと同じ感じ。
外だけど、この公園内には今は人はほとんどいないし。
少し恥ずかしいけれど、それよりもこのぬくもりを感じていたくて、わたしは胸に頬をすりつける。
「寒さとか、どうでもよくなっちゃった」
「素敵なものが見れたから?」
問いかけてくる拓斗は、聞かなくても答えはわかっているんだろう。
拓斗は少しだけ、顔が見れるくらいに身体を離す。
「うん。はかないけど、奇跡の欠片みたいだよね」
わたしは宙に手を伸ばす。
コートの袖にくっついた白い粒に目を凝らせば、透明な結晶がいくつも固まっているのがわかる。
今日は黒いダッフルコートを着てきたから、結晶が映えて細部まで見ることができる。
きれい、とため息混じりにつぶやいた。
どうしてこんなに惹かれてしまうんだろう。
めずらしいから、めったに見られないから、だけじゃない。
心が浮き立って、それでいて癒やされて、しあわせをくれる、小さな小さな奇跡。
いつまででも見ていたい、と思った。
「ね、もうどうせ予定してた映画の時間は過ぎてるし、次の回が始まるまでここにいようよ」
拓斗を見上げて、わたしは提案する。
今日はこれから映画を見て、ウィンドウショッピングをして、いつもよりもちょっと豪華な夕ご飯を食べる予定だった。
でも、拓斗が遅れてきたことで映画は次の回を待たなきゃいけない。
その間にウィンドウショッピングをすれば、順番が変わっただけになるけど。
それよりも、見ていたいものができてしまった。
「カフェとかに入ったほうがいいんじゃない?」
「だって、近くで見てたいよ。こんなにきれいなんだもん」
違う提案をしてくる拓斗。
身体をあたためたほうがいい、って言いたいんだと思う。
カフェの窓からも、外は見えるんだから、と。
それは、そのとおりなんだけど、やっぱりわたしはこの景色を見ていたい。
公園の樹木に降り積もる白。
空から舞い降りる、冷たくて優しい結晶。
何時間見ていたって、きっと飽きない。
「どうしても嫌なら、わたしだけここにいる」
むぅ、と頬をふくらませて、わたしは言った。
それじゃあデートの意味がないのは、わかっている。
でも、それくらいに、わたしは白い景色に魅せられていた。
「はいはい、お供しますよ」
拓斗は苦笑して、もう一度わたしをぎゅっと抱きしめた。
あったかい。ほっとする。
……少し、ドキドキもする。
デートに遅れてくるような人だけど。浮かれて謝るのを忘れるような人だけど。
わたしのわがままに付き合ってくれるところ、やっぱり好きだな。
「あったかい飲み物買ってくる。ココアだよね?」
「うん」
わたしは笑顔でうなずく。
こうしてわたしの好みをちゃんと覚えていてくれているところも、好き。
ここにいることにすぐに賛成してくれなかったのだって、きっとわたしのことを心配してくれてのことだろうし。
……やっぱり、好きだなぁ。
そんなことを、再確認してしまう。
近くの自動販売機まで走っていく拓斗を見送りながら、ベンチに座る。
空を仰げば、さっきよりも降る勢いは増していて。
明日はかまくらが作れてしまうくらいに積もっているかもしれない。
そんな想像も、なんだか楽しくて。
空からの贈り物に、わたしは心の中でありがとうとつぶやいた。