ごくごく平凡な高校生である小林明広には、年季の入った悩みがあった。
成績が悪いわけではない。むしろ学期末テストではいつも上位一割には入っている。
家庭環境もいたって良好だ。ゴルフ好きの優しい父に、何事にも大らかな母。四つ離れた兄とも仲が良い。
悪事に手を染めてしまったわけでもなく、大変な秘密を持ってしまったわけでもない。
もう何年も、特に思春期から、明広のため息の原因は……。
「あきちゃん、だいすき」
幼なじみである岩崎千絵美の、この発言だった。
彼女にとっては挨拶の一種なんだろう。
天然という言葉だけでは表しきれないほど、子どもそのものの、同い年の幼なじみ。
自分の感情や欲求に正直で、時と場合を考えてくれない。
今は通学途中。もちろん公道には人がいて、その中にちらほら同じ学校の生徒も混じっている。
明広は吐きそうになったため息を飲み込んだ。
十年以上も一緒にいれば、戸惑いはあるもののある程度は慣れてしまっている。
千絵美は思ったままを口にしただけ。深い意味はない。
けれど、周りはそう思ってはくれない。
告げる相手が、幼なじみとはいえ異性なら、余計に。
おかげでずいぶん前から、近所でも学校でも彼氏彼女で通ってしまっていた。
誤解は解かなければならない、と真面目な明広は思う。
思ってはいるのだけれど。
「うん、僕もだよ」
千絵美の笑顔にそうとしか返せないから、始末に負えない。
いつからなのか、正確には分からない。
気づいたときには彼女を好きになっていた。
友人としてではなく、幼なじみとしてだけでもなく。
大切に思っているからこそ、ため息は深まるばかりだった。
千絵美は幼い。
子どものように無垢で、無邪気で……無知で、無神経で。
きっと、お花が好き、お菓子が好き、というのと同じ意味で言っているのだろう。
けれど明広の『好き』は違う。もっと重く激しい恋情。
その差異に少なからず気落ちすることだってある。
自らの想いを押しつけるつもりはないが、いつまで今の関係を壊さずにいられるか、自信がない。
明広は気づかれないよう、小さくため息をついた。
少年の心を知りもせずに、千絵美は早咲きの小花を集めたような、屈託のない笑みを浮かべた。
また、千絵美の特殊な感性を発揮するのだろう。
長い付き合いから、相手の行動パターンは手に取るように分かった。
「お空が広いのはね、あきちゃんを包み込むためなの。
お花が綺麗なのはね、あきちゃんを和ませるためなの」
少女の瞳はうっとりと夢を見ているように輝きを増す。
そう、特殊な感性というのは、これだ。
『あきちゃんの笑顔はすごいんだよ。
あきちゃんがにこってすると、お日さまも元気いっぱいになっちゃうんだよ』
『あきちゃんが悲しいと、お空もお花もちえも悲しいの。
みんなで一緒にたくさん泣いて、それからちゃんと笑おうね』
まるで世界が明広を中心に回っているかのように語る。
意味不明で、単純で、つたない論理。
そんな千絵美の言葉に何度となく励まされ、支えられてきたのも、事実だから。
幼さも特殊な感性も全部ひっくるめて、自分は彼女が好きなのだろう。
「ちえのお手てが二つあるのはね」
言葉を切り、千絵美は両腕をこちらに伸ばしてくる。
何をする気だろうと身構えていると、明広の片手をすくいとられた。
「――こうやって、あきちゃんを温めるためなの」
一瞬にして、少年の全身は沸騰する。
聞き様によっては、それこそ大きな誤解を生みそうな台詞だった。
羞恥心、というのは彼女にはないのかもしれない。
真っ赤になっているだろう頬に、もう片方の手で触れ、予想通りの熱さにため息をつく。
自分の中できつく抑えつけられている欲の錠が、この熱で溶けてしまいそうだった。
「あきちゃんは?」
無邪気で無垢な少女は、半分混乱している少年にも答えを求める。
可愛らしく小首をかしげられても、返答に困るのだが。
「僕の、手は……」
それでも必死に、明広は考える。
手は人の体の中で一番自由に動かせる器官だ。一つに絞るのはとても難しい。
何のためにあるのか。
驚くほどあっさりと、少年の頭は答えを導き出した。
この手は、千絵美を守るためにある。
少女がつらいときは支えられるように。少女が困っているときは手助けできるように。
不思議なことに、自分も彼女を中心に世界が回っていた。
明広は苦笑をこぼす。
自分の感性だって似たようなものなのかもしれない。
空いている方の手を、伸ばす。
きょとんと明広を見上げる千絵美の頭に、そっと手のひらを乗せた。
「千絵の頭を、なでるためにあるんだよ」
なでなでと数回、サイドの細い三つ編みを崩さないように優しくなでる。
娘が欲しかったらしい明広の母から教わった、少女のお気に入りの髪型だったはずだから。
本当は自分から触れるだけで、心臓はうるさいくらいに高鳴っていて。
それでも千絵美が一面の花畑のような笑みを浮かべたから、これでいいんだと思った。
「嬉しいなぁ。幸せだねぇ。
それってとっても、すごいことだよ!」
「そうかな」
興奮気味の千絵美からさりげなく手を離し、平静を装って返事をする。
早い鼓動はいまだ耳の裏で鳴り響いたまま。
「うん、ちえ嬉しい。
あきちゃん、だいすき!」
やっぱり、彼女の発言には振り回されてばかり。
明広の心拍数が正常に戻ることも、ため息がなくなることも、当分は諦めるしかないようだ。