恋に落ちるきっかけなんて本当に些細なもの

 上永 遥。先月十七歳になったばかり。
 俺にはかわいいかわいい幼なじみの女の子がいる。
 なんて言うと、必ず「好きなんだろ」ってからかわれるけど、残念ながらラブじゃなくてライクだ。
 それは、向こうも同じこと。
 一つ年下の幼なじみ、森下麻耶には、もう何年も片思いしている相手がいる。

 麻耶の恋愛相談を、今までに何度受けたことだろう。
 二十回を軽く超えているのは確実だ。
 相談室は、麻耶の家から歩いて一分か二分くらいの、俺の家の俺の部屋。
 冷房のかかった部屋で、すでに氷が溶けきっている麦茶を飲みながら、俺は麻耶の話に耳をかたむけていた。
 「どうしよう」なんて言いながら、告白しようとはしないんだから、相談なんて最初から意味ないじゃないかと俺は思ったりする。
 だから俺はいつも、話半分に聞いていた。
 数年前から数えるのも面倒になるほど相談を受けているけれど、まったく進展はない。

 麻耶は、今時の子みたいな華やかさはないものの、素朴なかわいさがある。
 もし告白すれば、両思いになれる可能性がゼロとは思えない。……多少、欲目が絡んでいるのは認めるけど。
 なのに麻耶は今まで一度も告白したことがなかった。
 友だちのままで満足してしまっているフシがある。

 最初は、引っ込み思案な子だからしょうがないか、と我が子を見る親の心境でいた。
 でも、何年もそんな調子だと、さすがに呆れてしまう。
 好きなら、好かれる努力をするべきだ。
 待っているだけでいいわけがない。
 想いを伝えるのに勇気がいるのはわかるけれど、言わなければ何も始まらない。

「お前ってさ、そいつのこと本当に好きなの?」

 俺はついに、ずっと思っていたことを聞いてしまった。
 長年片思いしている麻耶とは違い、過去に二人ほど彼女がいたことのある俺には、見ているだけの恋なんて理解できない。
 好きならいつも傍にいたくなる。触れたくなる。恋人権限で束縛したくなる。
 麻耶がどうして告白しようとしないのか、どうしてもわからなかった。

「……好き、だよ」

 麻耶は真っ赤になりながらも、小さな声で答える。
 その様子はたしかに『恋する女の子』だった。

「好きなのに、恋人になりたいとは思わないの?」

 俺はさらに問いを重ねる。

「思う……けど……」
「けど?」
「無理、だもん……」

 そう言って、麻耶はうつむいてしまった。

「なんで無理って決めつけるの? 相手がどう思ってるかなんて、聞かなきゃわかんないじゃん」
「わかるよ」

 やけにはっきりとした声が返ってきた。
 俺は目をぱちくりとさせる。

「わたしのこと、どう思ってるのかなんて、わかるよ。ずっと見てたんだもん。ずっと好きだったんだもん」

 麻耶は、積み木をゆっくり重ねるように言葉を、想いを言い重ねていく。
 その間も顔は伏せたまま。
 けれど声はわかりやすく震えていて。
 泣いていないか、心配になった。

「わたしのこと、ただのおさ……お友だちって思ってるんだって。それくらい、わかるよ……」

 沈んだ声でそこまで語って、麻耶は口を閉ざしてしまった。
 普段ほとんど自己主張せずに、俺の後ろに隠れているような麻耶がこれほどはっきりと言うなら、本当のことなんだろう。
 どうやら俺は悪いことを言ってしまったようだ。

 俺は返す言葉に悩んだ。
 ただの当たり障りない慰めは言いたくない。
 何より、麻耶に簡単にあきらめてほしくなかった。
 物心つく前から傍にいた俺は、麻耶の優しさや純粋さを一番知っている。
 今すぐ麻耶の好きな奴に突撃して、麻耶のいいところを語って聞かせたいくらいだ。

「その……さ。今はただの友だちかもしれないけど、ずっとそうかなんてわからないだろ。人の気持ちなんて、ちょっとしたきっかけで変わるもんなんだし。だから、きっかけを作らないであきらめるのは、もったいないと思うんだ」

 言葉を選びながら、俺は自分の考えを告げる。
 麻耶はゆるゆると顔を上げた。
 少し目がうるんでいたけれど、涙は流れていなくてほっとした。

「麻耶はかわいいし、魅力的だよ。好かれて迷惑に思う奴なんていない。もっとアピールして、そいつにも麻耶の魅力に気づいてもらわなきゃ」
「わたしの、魅力……」

 大きな目をまん丸にして、麻耶はつぶやく。
 少しは前向きにさせられただろうか。
 俺は思わず微笑んだ。

「麻耶なら大丈夫だよ」

 そして、仕上げに魔法の言葉を口にする。
 麻耶に勇気を与える、俺だけに使える魔法だ。
 俺の幼なじみはひどく臆病だけれど、一人では何もできないというわけじゃない。
 行動を起こす前に、人よりもたくさんあれこれと考えてしまうだけ。
 そんな幼なじみの背中を押すのは、いつも俺の役目だった。

「……うん、がんばりたい、な。今すぐには無理かもしれないけど、いつか告白したいし……」

 麻耶はそこで言葉を切って、ふわりと笑う。
 ほんのり色づいた頬が、どんな化粧よりもアクセサリーよりも彼女をきれいに飾る。
 キラキラとしたそのまぶしい笑顔に、惹きつけられた。

「ずっと、好きでいるよ」

 やわらかな笑み。覚悟のこもった声音。
 まるで俺が告白されたみたいに錯覚して、鼓動が跳ね上がった。
 急に落ち着かない気持ちになって、俺は麻耶から目をそらしてしまった。
 胸のドキドキはなかなか治まってくれない。
 この感覚には覚えがあった。
 恋愛経験がないわけじゃない。それが、いきなりやってくるものだということも知っている。
 いや、でも、まさか、そんな……。

「そ、そうだな、がんばれ」

 ギクシャクしつつも、なんとかそう言葉を返すことができた。
 様子がおかしいと思われていないだろうか。
 いつもどおりでいたいのに、焦れば焦るほどどうすればいいのかわからなくなる。
 膝の上で握った手のひらには、じわりと汗がにじんでいた。

「ありがとう、はるくん。いつも助けてもらってばかりで、ごめんね」

 麻耶の言葉には申し訳なさと、あふれそうなほどの感謝の気持ちが込められていた。
 俺に対する、絶対の信頼。
 いつもなら笑って気にするなと言えるのに、今は口が動かない。
 壊れた人形にでもなった気分だ。

「……はるくん? どうか、した?」

 さすがに麻耶も、俺の様子に気づいたらしい。
 どうやってごまかそうか、と思考が空回る。

「や、ちょっと、友だちにメール返すの忘れてたのを思い出して。早く返さないとうるさいんだ、あいつ」

 なんとか理由を作って、へらりと笑みを浮かべる。
 メールを返さなきゃいけないのは嘘じゃない。
 麻耶が家に遊びに来たときは、いつも後回しにしているけれど。

「そ、そっか。じゃあわたし、もう帰るね。宿題もあるし」
「ああ、悪いな」

 麻耶はいそいそと荷物をまとめ始める。
 別に、メールくらい人がいても打てるけれど、正直助かった。
 とてもじゃないが、今は麻耶と一緒にいられる精神状況じゃない。

「じゃあね、はるくん。また明日」
「うん、また明日」

 麻耶とは同じ高校に通っている。
 痴漢避けにと登下校も一緒だから、明日の朝には必ず顔を合わせることになる。
 それまでに、どうにか落ち着かなければ。

 パタン、とドアが閉められた。
 階段を降りる軽い足音が聞こえなくなってから、俺は大きなため息をついた。
 心臓はまだ激しい音を立てている。
 今、脈拍を測ったら、100を超えていそうだ。
 気のせいでもなんでもなく、俺は麻耶に幼なじみ以上のものを感じて、ドキドキさせられている。

 でも、あんな表情で、あんな告白まがいなことを言われたら、誰だって少しは反応するだろう。
 そんな言い訳に、否を唱える自分もいる。
 じゃあ、いまだに冷めない胸に灯った熱はなんなんだ、と。

「やっぱ、俺……」

 好きに、なってしまったんだろうか。
 ずっと幼なじみだと思っていた麻耶のことを。

 はぁぁ、とまたため息を吐く。
 なるほど、たしかに人の気持ちなんて、ちょっとしたきっかけで変わるものだったようだ。
 図らずも自分の言葉を自分で実証してしまったらしい。
 ライクがラブに変わる瞬間は、あまりにも唐突にやってきた。
 もう俺は、麻耶をただの幼なじみには見れない。
 大切な幼なじみは、好きな女の子になってしまった。

 恋心を自覚すると、さっきまでまったくわからなかった麻耶の気持ちも、手に取るように理解できるようになった。
 告白は勇気のいるものだ。
 幼なじみとしか思われていない相手に、好きだなんて怖くて言えない。
 今までの関係を壊すのが怖い。
 しかも麻耶には、他に好きな人がいるんだから。

「情けない……」

 額に手を当てて、うなだれる。
 あんなに麻耶にがんばるよう促したというのに、自分は怖じ気づくなんて。
 片思いがこんなに大変なものだったなんて、知らなかった。
 俺にも魔法をかけてもらいたいくらいだ。

 何年も片思いし続けている麻耶は、俺が考えていた以上につらい思いをしていたんだろう。
 そんなことに今さら気がついた。
 無神経なことばかり言って悪かったと麻耶に謝りたくなる。

 とりあえず、今、願うことは。
 俺が覚悟を決めるまで、麻耶があまりがんばってしまわないように。
 俺のかけた魔法が作動してしまわないように。
 背中を押した張本人が何を言う、って感じだけど、自覚してすぐに失恋なんて、悲しすぎるから。
 俺にもチャンスをください、と願った。



 そんなことを願わなくても、チャンスなんて最初から目の前にあったんだと俺が気づくのは。
 彼女にかけた魔法が正常に作用して、彼女の『ずっと』の重みをその口から聞いて。
 「好き」というその言葉こそ最大の魔法だと知る、数ヶ月後のことだった。



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