【1】神さま、人間界へ行く

「いってらっしゃい、私のかわいい小さな女神よ」
「はい、いってきます、兄神さま」

 先輩神に頭を下げて、私は門をくぐった。
 人間界へと通じる大きな門を。
 これから私は人間界へ降り、人間について――人間の幸福について、学ばなければならない。



 唐突だけれど、私は神さまだ。
 まだ正式に神として運用はされていない、見習いの神だ。
 子ども、というわけじゃない。神には子どもも大人もない。生じた瞬間から完全体だ。
 外見が幼い神も、外見が老人の神もいる。総じて言えることは、基本的に外見は変わらないということ。
 中にはおしゃれな神もいて、会うたびに髪色が違ったりするけれど。金や赤はいいけど、紫色は微妙だと思う。ナスか。

 話を戻そう。私は神さまだ。
 神というのは、この世界を予定通りに動かすための単なる装置の通称でしかない。
 機械に自我が芽生えたようなものだろうか。
 人間たちが勝手に天国だとか天界だとかと呼んでいる、なんだか雲みたいにもやもやした世界で普段は暮らしている。
 仕事の関係でちょくちょく人間界に降りる神なんかもいる。
 そうして私たち見習い神も、今回初めて人間界へと赴くことになった。

 人間のお仕事には、研修期間、と言うものがあるらしい。
 なら、私が今回、人間界に降りて人間を学ぶことも、その研修期間というものになるんだろう。
 研修期間中は、好きな時に人間界に降りることができる。人間界で、人間と交じり、人間の真似事をして過ごす。
 自分たちが動かす世界に生きている生物を学ぶこと。それは神が神として稼働するために必要なことだった。

――狂った神にはなってはいけないよ。

 何度も、何度もそう言われてきた。
 神には年月という概念がなく、時間の流れはあやふやだ。
 その中で、耳にたこができるほど、と思うのだから、相当の回数言われたことがわかるだろう。
 狂った神、とは、神として機能しなくなった神のこと。
 狂わないためには、正式に神となる前に人間をしっかり学んでおく必要がある。
 神として大切なことは、人間に肩入れしすぎないこと。けれど人間をただの数としては見ないこと。
 矛盾している、と私なんかは思うのだけれど、先輩神にとってはどちらも大切なことらしい。わからない。

 人間は愚かな生き物らしい。そして、愛すべき生き物らしい。
 どちらも、私にはまだ実感がわかない。
 いずれわかるよ、と先輩神は言う。
 この研修期間で、私は人間の愚かさと愛しさを知るのだろうか。
 まだ、わからない。わからないなりに、そうであればいい、と私は思った。


  * * * *


 さて、人間界である。
 とある島国の、とある都会の、とある駅前である。
 四方八方人だらけ。人が多すぎて、さっそく気持ち悪くなってきた。
 どこか休めるところはないか、と駅のすぐ傍の大時計の横のベンチに座っていた。
 待ち合わせ場所に使われるのか、やっぱりここも人が多い。
 そして、ここに座っているとなぜか人に声をかけられることが多かった。
 たいていは適当に流しているとすぐどこかへ行ってしまったが、しつこい人に捕まってしまった。

「姉ちゃん、さっきからずっとそこにいるけど、彼氏さんにデートボイコットされた? 俺が相手してやろうか?」

 デート。仲のいい男女が一緒に会うこと。
 ボイコット。拒否、排斥などを行うこと。
 この場合は直前でお出かけの予定をキャンセルされたのかと言いたいんだろう。
 そもそも誰とも約束をしていなかった私は、首を横に振る。
 そうするとその男性はもっと積極的に話しかけてきた。
 どうしてここにいるのかとか。これから予定はあるのかとか。何歳なのかとか。
 答えられる質問が少ないので、無言を貫いていても、相手はお構いなし。だんだんとうっとうしくなってきた。
 なんでこんなに私のことを聞こうとするんだろうか。

 研修期間の間に、私は人の世を知り、人の幸福とは何かを知る必要がある。
 そのためには、深く人と交わらなければならない。
 今私に話しかけている人にも、願いがあり、幸福に思うことはあるのだろう。
 けれど、関わる人間は選びたい、と見習い神は見習い神なりに思うのだ。

「なぁ、あっちにおいしい店があるんだよ。奢ってやるから一緒に行こうぜ」

 しつこく話しかけてきていた男は、そう言って私の手を取った。
 さわられた瞬間、不快感がいや増した。
 思わず振り払おうとしたが、意外と男の力が強く手は離れなかった。
 不快さを表すように男を睨むものの、へらへらと笑う男はダメージを負った様子はなく。
 さてどうしたものか、と思っていたところで、その声が聞こえた。

「すみません、この子、俺の連れなんで!」

 不快感も忘れて、私は割って入ってきた青年を凝視した。
 美形と言うほどではないが、醜くはない目鼻立ち。まっすぐ人を見る澄んだ瞳。一度も染めたことがないんじゃないか、というきれいな黒髪。
 なるほど、これが“善良な人間”というものか。
 私は青年を見て納得してしまった。
 きっとこの青年は、私を助けようとしてくれているんだろう。

 私と一瞬視線を交わらせたあと、青年は私を背にかばうように立ち位置を変え、私の手をつかんでいた男と何か話している。
 話の内容はどうでもよかった。
 青年の背の広さが、目に見えるもの以上に見えた。
 頼もしい、という言葉はこういうときに使うのかもしれない。
 一つ、勉強になった。
 たしかに研修期間というものは学ぶものが多いようだ。

「君、大丈夫? もうあの人いなくなったよ」
「あれ、いつのまに」

 振り返った青年に声をかけられて、私ははっとする。
 そういえば気づいたら手は離されているし、不快感しか覚えなかった男の姿はどこかへ消えていた。
 ちゃんと話は聞いておくべきだっただろうか。
 どうでもいい、などという怠惰はなるべく控えておかなければならないようだ。
 どんなことであれ、人間界での経験は役に立つだろう。

「迷惑そうな顔してたから思わず助けちゃったけど、君ももう少しはっきり断らないとダメだよ」
「はい」

 人間のことは人間である彼のほうがよく知っているだろう。
 彼がダメだと言うのなら、きっと私の対応は正しくなかったのだ。
 素直に返事をすると、青年はへにゃりと眉尻を垂らした。

「まったくもう、なんか危なっかしいなー、君」

 ガシガシ、と青年は乱暴に自分の頭を掻く。
 どうやら私の対応に苛立ちを覚えているらしい。
 おかしなことを言った覚えもやった覚えもないのだけれど。
 人間というものは難解な生き物だ。

「そんなことは……」

 とりあえず、身に覚えがないので否定しようとした。
 けれど、はっきり否定するにも確証がない。
 何しろ私は見習い神で、人間については今まで知識としてしか知らなかった。
 人間の中に混じって人間として過ごしている今、人間としておかしい行動をしてしまったのなら、否定しては“人間らしくない”ことになってしまう。
 結局、尻すぼみになってしまい、あとは無言で青年を見上げることしかできない。

 青年は、この国の平均より十センチ近く背が高いようだ。
 この国の平均に合わせた外見をしている私では、見上げると少々首が痛い。
 男は背が高いだけで三割り増しに格好良く見えるのよ、と言っていたのはどの先輩神だったか。
 なるほど、彼女の言葉を信じるのなら、この青年は“格好いい男”の部類に入るのだろう。
 その“格好いい男”は困惑したように眉をひそめ、口を開いた。

「だって、たとえばここで俺が、これから一緒に食事でもどう? って誘ったら、のこのことついてきちゃいそうだ」

 それは、予想していない言葉だった。
 誘い文句、とも取れる内容だ。
 けれど私の中に、先ほどの男のような不快感はどこにもなかった。
 この青年ともっとお話しできるかもしれない、というのは、私にとっても魅力的だった。

「それは、いけないことなの?」

 私は、素でそう問い返した。
 青年は“善良な人間”だ。それは間違いない。
 だったら、一緒に食事をすることはなんら問題ないことのように思えた。
 私が人間を学ぶために関わる人間として、これ以上ないくらい適しているだろう。

「……本当に危なっかしい。これは危険だ、危険」

 私に聞こえるか聞こえないかといった小さな声で、青年はぶつぶつとつぶやく。
 実際には人間とは違う聴覚を持つ私に聞こえないわけはないのだけれど。
 何が危険なのかわからず、首をかしげていると、青年は、はぁぁぁと大げさなほど大きなため息をつく。

「今時めずらしいくらいすれてないんだね」

 呆れたような顔で、青年は言う。
 すれてない、というのが褒め言葉なのか貶し言葉なのか、私には判断がつかない。
 ニュアンス的にあまりいい意味で使われていないような気はしたけれど、青年がすれていないと言うのなら、きっとそうなのだ。
 だって青年は人間で、私は神だ。神としての常識は、ここでは通用しない。
 人間から見ると、私はすれていないように見えるんだろう。

「じゃ、誘われてくれる? って言っても、今金欠だからハンバーガーくらいしかおごれないけど」
「食べる」

 こくん、と私は一も二もなくうなずく。
 いつまでも一人でここにいたって意味はないだろう。
 それなら、青年と一緒に行動して、青年を観察して、人間というものを知るほうが、ずっと有意義だ。

「うーん、複雑だなぁ」

 なんだか悪いことしてるみたいだ、と青年は苦笑する。
 青年の気持ちを私は理解することができない。
 私のどこを見て危なっかしいと思ったのか、何が複雑なのか、どうして私を食事に誘ってくれたのかも。
 今はわからないけれど、それはまだ人間についてよく知らないせいだからだろうと思った。
 こうして得た機会を有効活用して、人間というものを学べば、自然と理解できるようになるだろう。

「あなたは悪い人じゃなさそうだから」
「それは光栄だけどね」

 正直に言っただけだけれど、一応は褒め言葉だっただろうに、青年は褒められてうれしそうには見えない。かといって不快そうにも見えない。
 なるほど、こういうのを“複雑そうな表情”と言うのだろう。
 物を知らない私に、先輩神たちがたまに浮かべる表情に似ていた。



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