夢を見る。
どうしようもないくらい、幼い自分の夢を。
『今日から押しかけ女房やらせてもらいます!』
『わけがわからない』
『私ね、ヴィーのことが好きなの!』
『……はぁ』
呆れたようなため息を今でも覚えている。
『この花、きれいなんだけど……きれいだからかな? ほら、こんなに手が荒れちゃって』
『荒れない方法、あるよ』
『……え!?』
私はヴィーに、救われた。
『見飽きていた花なのに、今は一番好きなの。だって、ヴィーの瞳の色だから』
『物好きだね』
いつも窓辺に飾っていた花は、私と彼をつなぐ花だった。
『こんなところで寝てると、風邪引くよ』
『ヴィー……さむい』
『そんな薄着じゃね』
『ひどい! そこはちょっとムラッとして、目をそらしながら上着を貸すところじゃないの!?』
『ムラッとはしてるよ』
『へ? ……っ』
思えば最初は、酔っぱらった私が絡んだせいだった。
ヴィーに責任なんてない。謝ってもらう理由だってない。
全部、私が勝手にしたことだ。
夢を見る。
十六歳の春から彼と積み重ねてきた記憶を。
ヴィーに恋に落ちて、ずっと、ずっと恋をし続けた、十年間を。
「……ごめんね」
夢の最後は決まって、この言葉。
お別れの日、ヴィーが最後に告げた言葉。
一番、私の心を揺らした、言葉。
ヴィーはいったい何を謝ったんだろう。
私を家から追い出したこと? 私に想いを返せなかったこと? 私の気持ちには応えないくせに身体は重ねていたこと? 私に何も言わず勝手に全部決めてしまったこと?
ひどい、と思わなくもないけど、ヴィーがひどいなら私だってひどかった。
ヴィーを好きになったのだって、押しかけ女房になったのだって、私が抵抗しなかったのだって、全部、私の勝手だった。
「ごめんね、アーシャ」
ああ、さすがは夢だ。
ただ記憶を見せるだけじゃなくて、願望まで叶えてくれるなんて。
だって、だってヴィーは。
ただの一度も、私の名前を呼んでくれたことなんて、なかったもの。
* * * *
日の曜日はお店の定休日。
週に一度のこの日は、最近は先輩と遊びに行ったり、一緒にご飯を食べたりすることが多い。
今日は私の家で、私が手料理を振る舞うことになっている。
ん、だけど。
「今日、予定変更して外に食べに行く?」
家に来て少しして、先輩は唐突にそう言い出した。
「え、もう下準備しちゃってますよ」
「そうよねぇ、でも、気になるんだもの」
「何がです?」
私の問いかけに、先輩は人差し指を突きつける。
その指の先は、私……というよりも。
「それ。あんたの髪の毛」
「あー……」
クセのある髪をいじりながら、私は苦笑する。
先輩はきれいなだけでなく、オシャレだ。自分を磨くことを怠らない。
そんな先輩には、私はどれだけ怠惰に見えていることだろう。
「伸ばしっぱなしじゃない。こっちに来てから一度も切ってないでしょ」
もちろん図星だった。
というより、実はここ数年、私は髪を切ったことがなかった。
「一応、伸ばしてるんですけど」
「伸ばすにしても、毛先くらいは整えなきゃダメよ。お金がかかるのが嫌なら、私が切ってあげましょうか?」
「うーんと……」
先輩が親切心で言ってくれているのはわかっている。
でも、うなずく気にはなれなかった。
先輩にとっては、ただの髪なんだろうけど。
私にとっては、もっと、違う意味を含んでいて。
それは、簡単に切り捨てられるようなものじゃなかったから。
「何か、願掛け?」
私の渋りように、切りたくない理由があるんだと気づいたんだろう。先輩は察しがよくて助かる。
自分用の湯飲みを両手で包み込む。黄色い花の描かれた、否、自分で描いた湯飲み。ヴィーの持っていた、もう割れてしまった湯飲みとは色違いの。
「そんなような感じです」
私はあいまいにごまかした。
何かしら事情があると感じ取ったらしい先輩は、「そう。じゃあしょうがないからあきらめてあげる」と言って、もう髪のことには触れないでおいてくれた。
よく行く化粧品店の春の新色がよかったとか、そろそろ春祭りが始まるだとか、話題が他に移っても。ご飯の準備をしだしても、ご飯を食べていても。
薄布を通して景色を見ているみたいに、私は少しぼんやりしてしまっていたけど。
そんな私のことも、先輩は怒らずに、何も聞かずにいてくれた。
優しい先輩に感謝感謝だ。
願掛け……なんだろうか。自分でもよくわからない。
背中の中ほどまでだった髪は、今はもう背中を覆うくらいまで伸びていて。それがそのまま、ここに来てからの月日を物語っている。
ここに飛ばされてすぐのころは、まだ期待していた。きっとすぐに迎えに来てくれるって。あんな唐突すぎる別れ、何かの間違いだったんだって。
与えられた部屋に住んでるのも、決められた職場で働いてるのも、いつヴィーが来ても大丈夫なようにだ。
何も、変えないように。変わらないように。
ヴィーが迎えに来てくれたら、またすぐに元通りになれるように。
でも、本当は、怖かったのかもしれない。
自分の足でヴィーの元まで帰って。ヴィーの家の戸を叩いて。
もしも、開けてくれなかったら、って。
遠いから。女の一人旅は危険だから。
そんな理由づけをして、ただ単に私は、臆病風に吹かれているだけなのかもしれない。
十年前にはできたことが、今はもう、できそうにない。
あのとき以上に好きになったから、好きになりすぎたから。
拒絶が、怖い。
ぎゅっと、湯飲みを握り込む。丈夫な湯飲みは強く握ってもびくともしない。
もう、何年も伸びていなかった髪。
気持ちは通じ合ってないのにヤることはヤってた私たち。長命のヴィーに抱かれることで、私にも何か不思議な力が移っていたようで。
若返る前だって、二十六歳には見えないくらい若かった。髪はまったく伸びないわけではなかったけど、ほとんど誤差くらいしか変わらなかった。
人間という枠から、少しはみ出てていたんだろう。
ヴィーに抱かれたのが、一度や二度じゃなかったから、だろう。
だからちょっと、ほんのちょっと、期待もしていたんだけど。
いつかは振り向いてくれるんじゃないかって、思っていたんだけど。
ただの性欲処理だったのかなぁ。女のカラダに興味があったとか、それだけだったのかなぁ。
十年を返されたことで、バージンを奪われた事実もなくなったことで、普通の人間と同じように髪が伸びるようになって。
そのことに気がついたとき、私は髪を握りながら泣いた。
失恋すると髪を切る女の子たちの気持ちが理解できてしまった。気持ちの整理をつけるためなんだろう。
でも、だからこそ、私は伸ばす。
だって、髪が伸びるってことこそが振られた証拠だから。
伸びれば伸びるほど、私は実感できるはずだ。
この髪が腰を越えるころには彼のことを忘れられるだろうか。
彼がいつか迎えに来てくれるんじゃないかって、そんな淡い期待を、捨て去れるだろうか。