その三 失恋は髪を切るのが基本だが

 夢を見る。
 どうしようもないくらい、幼い自分の夢を。

『今日から押しかけ女房やらせてもらいます!』
『わけがわからない』
『私ね、ヴィーのことが好きなの!』
『……はぁ』

 呆れたようなため息を今でも覚えている。

『この花、きれいなんだけど……きれいだからかな? ほら、こんなに手が荒れちゃって』
『荒れない方法、あるよ』
『……え!?』

 私はヴィーに、救われた。

『見飽きていた花なのに、今は一番好きなの。だって、ヴィーの瞳の色だから』
『物好きだね』

 いつも窓辺に飾っていた花は、私と彼をつなぐ花だった。

『こんなところで寝てると、風邪引くよ』
『ヴィー……さむい』
『そんな薄着じゃね』
『ひどい! そこはちょっとムラッとして、目をそらしながら上着を貸すところじゃないの!?』
『ムラッとはしてるよ』
『へ? ……っ』

 思えば最初は、酔っぱらった私が絡んだせいだった。
 ヴィーに責任なんてない。謝ってもらう理由だってない。
 全部、私が勝手にしたことだ。

 夢を見る。
 十六歳の春から彼と積み重ねてきた記憶を。
 ヴィーに恋に落ちて、ずっと、ずっと恋をし続けた、十年間を。

「……ごめんね」

 夢の最後は決まって、この言葉。
 お別れの日、ヴィーが最後に告げた言葉。
 一番、私の心を揺らした、言葉。
 ヴィーはいったい何を謝ったんだろう。
 私を家から追い出したこと? 私に想いを返せなかったこと? 私の気持ちには応えないくせに身体は重ねていたこと? 私に何も言わず勝手に全部決めてしまったこと?
 ひどい、と思わなくもないけど、ヴィーがひどいなら私だってひどかった。
 ヴィーを好きになったのだって、押しかけ女房になったのだって、私が抵抗しなかったのだって、全部、私の勝手だった。

「ごめんね、アーシャ」

 ああ、さすがは夢だ。
 ただ記憶を見せるだけじゃなくて、願望まで叶えてくれるなんて。
 だって、だってヴィーは。
 ただの一度も、私の名前を呼んでくれたことなんて、なかったもの。


  * * * *


 日の曜日はお店の定休日。
 週に一度のこの日は、最近は先輩と遊びに行ったり、一緒にご飯を食べたりすることが多い。
 今日は私の家で、私が手料理を振る舞うことになっている。
 ん、だけど。

「今日、予定変更して外に食べに行く?」

 家に来て少しして、先輩は唐突にそう言い出した。

「え、もう下準備しちゃってますよ」
「そうよねぇ、でも、気になるんだもの」
「何がです?」

 私の問いかけに、先輩は人差し指を突きつける。
 その指の先は、私……というよりも。

「それ。あんたの髪の毛」
「あー……」

 クセのある髪をいじりながら、私は苦笑する。
 先輩はきれいなだけでなく、オシャレだ。自分を磨くことを怠らない。
 そんな先輩には、私はどれだけ怠惰に見えていることだろう。

「伸ばしっぱなしじゃない。こっちに来てから一度も切ってないでしょ」

 もちろん図星だった。
 というより、実はここ数年、私は髪を切ったことがなかった。

「一応、伸ばしてるんですけど」
「伸ばすにしても、毛先くらいは整えなきゃダメよ。お金がかかるのが嫌なら、私が切ってあげましょうか?」
「うーんと……」

 先輩が親切心で言ってくれているのはわかっている。
 でも、うなずく気にはなれなかった。
 先輩にとっては、ただの髪なんだろうけど。
 私にとっては、もっと、違う意味を含んでいて。
 それは、簡単に切り捨てられるようなものじゃなかったから。

「何か、願掛け?」

 私の渋りように、切りたくない理由があるんだと気づいたんだろう。先輩は察しがよくて助かる。
 自分用の湯飲みを両手で包み込む。黄色い花の描かれた、否、自分で描いた湯飲み。ヴィーの持っていた、もう割れてしまった湯飲みとは色違いの。

「そんなような感じです」

 私はあいまいにごまかした。
 何かしら事情があると感じ取ったらしい先輩は、「そう。じゃあしょうがないからあきらめてあげる」と言って、もう髪のことには触れないでおいてくれた。
 よく行く化粧品店の春の新色がよかったとか、そろそろ春祭りが始まるだとか、話題が他に移っても。ご飯の準備をしだしても、ご飯を食べていても。
 薄布を通して景色を見ているみたいに、私は少しぼんやりしてしまっていたけど。
 そんな私のことも、先輩は怒らずに、何も聞かずにいてくれた。
 優しい先輩に感謝感謝だ。

 願掛け……なんだろうか。自分でもよくわからない。
 背中の中ほどまでだった髪は、今はもう背中を覆うくらいまで伸びていて。それがそのまま、ここに来てからの月日を物語っている。
 ここに飛ばされてすぐのころは、まだ期待していた。きっとすぐに迎えに来てくれるって。あんな唐突すぎる別れ、何かの間違いだったんだって。
 与えられた部屋に住んでるのも、決められた職場で働いてるのも、いつヴィーが来ても大丈夫なようにだ。
 何も、変えないように。変わらないように。
 ヴィーが迎えに来てくれたら、またすぐに元通りになれるように。

 でも、本当は、怖かったのかもしれない。
 自分の足でヴィーの元まで帰って。ヴィーの家の戸を叩いて。
 もしも、開けてくれなかったら、って。
 遠いから。女の一人旅は危険だから。
 そんな理由づけをして、ただ単に私は、臆病風に吹かれているだけなのかもしれない。
 十年前にはできたことが、今はもう、できそうにない。
 あのとき以上に好きになったから、好きになりすぎたから。
 拒絶が、怖い。
 ぎゅっと、湯飲みを握り込む。丈夫な湯飲みは強く握ってもびくともしない。

 もう、何年も伸びていなかった髪。
 気持ちは通じ合ってないのにヤることはヤってた私たち。長命のヴィーに抱かれることで、私にも何か不思議な力が移っていたようで。
 若返る前だって、二十六歳には見えないくらい若かった。髪はまったく伸びないわけではなかったけど、ほとんど誤差くらいしか変わらなかった。
 人間という枠から、少しはみ出てていたんだろう。
 ヴィーに抱かれたのが、一度や二度じゃなかったから、だろう。

 だからちょっと、ほんのちょっと、期待もしていたんだけど。
 いつかは振り向いてくれるんじゃないかって、思っていたんだけど。
 ただの性欲処理だったのかなぁ。女のカラダに興味があったとか、それだけだったのかなぁ。
 十年を返されたことで、バージンを奪われた事実もなくなったことで、普通の人間と同じように髪が伸びるようになって。
 そのことに気がついたとき、私は髪を握りながら泣いた。

 失恋すると髪を切る女の子たちの気持ちが理解できてしまった。気持ちの整理をつけるためなんだろう。
 でも、だからこそ、私は伸ばす。
 だって、髪が伸びるってことこそが振られた証拠だから。
 伸びれば伸びるほど、私は実感できるはずだ。
 この髪が腰を越えるころには彼のことを忘れられるだろうか。
 彼がいつか迎えに来てくれるんじゃないかって、そんな淡い期待を、捨て去れるだろうか。



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