「終わりにしようか」
好きで、好きで、好きで好きで好きで。
ただその気持ちだけで、十年もの年月を彼と一緒に過ごしてきた。
彼は想いを返してはくれなかったけど、基本的に私に無関心だったけど、傍にいることを許容してくれた。それだけでよかった。
悲しくても切なくても、なんだかんだでしあわせだった日常は、そんな一言で、あっけなく崩れ去った。
思えばその日は朝から不吉な予兆に見舞われまくっていた。
朝起きたら、私が自分で絵を入れてプレゼントした湯飲みが割れていたり(昨日の夜、水を飲もうとして落としてしまったらしい。せっかく私のやつとペアだったのに)
いつも窓辺に飾っている花を畑に摘みに行くと、なぜかすべての花が首から摘まれていたり(心当たりがないか彼に聞いてみたら、薬の材料にするために摘んだ、と言われた。大口の仕事でも入ったんだろうか)
今日も彼の好きな白パンを焼いて、秋の味覚のカボチャスープを作って、玉子焼きはもちろん甘い味つけにして、なのに半分も残されたり(お腹がすかない、と言っていたけど、ずっとぼんやりしているからきっと新しい術式か新しい魔薬の配合でも考えてるんだ)
……全部が全部、目の前の彼、ヴィーが理由だった。
まあそもそもここには私とヴィーしかいないしね! 私はヴィーしか見えていないしね! そうなって当然だよね!
ここは深い深い森の奥にある、変わり者の魔法使い、つまりはヴィーのお家。
別に森全体が魔法使いの敷地というわけじゃないし、恵み豊かな森のために人の出入りは多い。とはいえこんな奥まで分け入ってくるのは、遭難者かヴィーに頼みごとにやってくる人だけ。道がないわけじゃないけど、整備されてるとはとてもとても言えないレベルの獣道。
そんな不便すぎる場所に居をかまえているヴィーに、私はいわゆる、押しかけ女房、なんてものをやっちゃってます。てへ!
しかもかれこれ十年くらい続けています。現在、花の二十六歳。うふふ!
とかなんとか、現実逃避してみたわけなんだけど。
私の視線の先で、ヴィーはいつもどおりの眠たげな表情のまま、首をかしげている。
彼の言葉に対して、私が何も反応しないことを不思議に思っているんだろう。それくらい言われなくてもわかるくらい、ずっと一緒にいた。
なのに、今、彼のことがわからなかった。
『終わりにしようか』
その、言葉の真意は?
別れ話の予感しかしないのは、気のせい、だよね?
「終わりにしよう」
提案じゃなく、断定形来ましたー! 来ちゃいましたーー!!
まずは主語も目的語も全部抜けていることに気づいてくださいーー!!
「ど、どどどどっ、どういう意味!?」
壊れた録音装置みたいに盛大にどもった。
動揺しすぎだけど、こんなの動揺するなってほうが無理な話だ。
「この不毛な関係を、という意味」
「不毛なの!? 不毛だったの!? 私はいつか絶対毛が生えるって信じてたよ!?」
「毛は生えてるね、ふさふさに」
「そういう意味じゃなく!!」
そりゃあヴィーも私もふさふさだよ! もっさもさだよ!
ヴィーは黒髪サラサラ、私は金茶のゆるい巻き毛。二人ともしばらく禿げる心配はなさそう。
魔力に応じて寿命の長い魔法使いが、禿げるのかどうかは知らないけど。
問題はそこじゃなくてだね!
「今の、あいまいな関係を終わりにしよう」
はっきり、言われてしまった。
さすがにそこまで言われたら、私にも彼の真意は読み取れる。
「……そ、それは」
ゴクリとつばを飲み込む。
のどがカラカラに乾いているのは、食後のおやつが甘食だったから、ということにしたかった。
「プロポーズということでよろしいか!」
「うん、よろしくない」
「そんな気はしてた!!」
一縷の望みすらひと払いで打ち砕かれた。
わかってたけど、わかってたけど!
ガーンガーン、と頭の奥で鐘が鳴り響く。祝福ではなく、まるで法事のときみたいな。
捨てられたら死んでやる!! って言うつもりはないけど、ショック死はありえるかもしれない、なんて思うほど、衝撃は強かった。
「ふと数えてみたら君が来てから十年もたってたしさ。節目でちょうどよくない?」
「節目だから別れるの!? 魔の三の倍数を着実に乗り越えてきたのに!」
何それ、とヴィーは花のように真っ赤な瞳をまたたかせる。
なんでも知っていそうな万能魔法使いだけど、俗世にまみれたどうでもいいような知識は持っていなかったりする。興味がないから聞いても覚えないだけかもしれない。
今も、ヴィーはそんなことはもうどうでもよさそうに、冷めたハーブティーで唇を濡らしてから、口を開く。
「そもそも」
ヴィーの声が心なしか硬い。
これから、私にとってうれしくないことを言われるのだと、予想がついてしまった。
「君は、僕が好き」
「うん」
「僕は、君とそういう関係になるつもりはない」
「……うう」
「僕たちは、付き合ってない、でしょ?」
念を押すように、ゆっくりと区切りながら。
その一つ一つの言葉が、正確無慈悲に私の急所へと突き立てられていく。
アイアンメイデンに抱きしめられたらこんな気持ちかもしれない。
痛い。痛い。いっそ殺してくれと言いたいくらい。いや言わないけどさ!
「知ってますよー私の片思いですよー」
グスグス、と半泣きになりながら自分の髪をいじる。
土で汚れた綿毛みたいだね、と昔ヴィーに言われたことを思い出して、余計つらくなる。
もうちょっと言いようはなかったのか。間違いなく褒め言葉じゃない。まあ褒め言葉のつもりもなかったんだろうけど。
そこまで言われても髪を切らなかったのは、たとえ汚れた綿毛だろうと髪は女の命、ないよりはあったほうがいいという打算から。決してもっと罵られたいからじゃない。私にMの気はないんです。
「十年も片思いしてて、いい加減飽きない? というか現実が見えてこない?」
「現実なんて! 恋する乙女の前では些末事!」
聞き捨てならない、と私が元気を取り戻してわめけば、じとり、という目を向けられる。
「今、いくつ?」
「……にじゅうろくでございます」
「乙女?」
「……申し訳ない! しかしそれに関してはヴィーにも責任が!」
「そっちの意味? まあそれは、うん、ごめんね?」
「誠意が感じられない!」
軽い、軽すぎる!
私にとっての大事件すら、ヴィーにとってはごめんねの一言で済む程度のものだったらしい。
百年以上童貞だったくせにー! 「童貞のまま三十歳を越えたから魔法使いになったの?」って冗談で言ったら一ヶ月口利いてくれなかったくせにー!
ふつふつと怒りがわいてくる。
ヴィーは、勝手すぎる。
「だいたい! 振るなら振るって、もっと早く言ってくれてもよかったじゃない! ずーーっとのらくらとした態度でさ! 望みがないならさっさと私をここから追い出せばよかったのよ!」
八つ当たり混じりの非難なんて、かわいくないのは百も承知している。
でも、言わずにはいられなかった。
自分でもびっくりするくらいのトゲトゲした声には、あきらめきれない恋心がにじんでいる。
「ヴィーがそんなだから、私、勝手に期待してたし、バージンだって捧げたし、女房面でわがままだってたくさん言ったし、十年も、じゅうねん、も……」
もう、言葉にならなかった。
何か言おうとしても、口からこぼれるのは、嗚咽。
泣くつもりなんてなかった。いつどんなときでも、ヴィーの気持ちが最優先。それでなくても私はヴィーよりすごく年下なんだから、子どもみたいに感情的になって困らせないようにしようって。ヴィーが決めたことならって、笑ってお別れできるような、そんな自分でいたかった。
なのに、いざそれが現実になってみれば、こんな。
「私の十年、返してよぉ……」
無茶なわがままを言って、困らせて。
どうして急に終わりがやってきたのか、まだわからない。実感もわかない。でも、捨てられるんだ、っていう恐怖と絶望だけは鮮明で。
そもそもヴィーは私を拾ったつもりもなかったんだろうけど。
何をしても拒絶されなくて。同じ空間にいることを許されて。いつもは全然優しくなかったけどたまに思い出したように優しくされて。
時間を重ねれば重ねるほど、どんどんどんどん、底なし沼みたいに沈んでいって。
こんな、もうとっくに後戻りできないところまで来てるのに、初めてNOを突きつけられて。
わがまま言ったら余計に嫌われる、なんて、考えるほどの余裕もなくて。
私がヴィーに恋をしたのは、ちょうど成人の年、十六の春だった。
悲しくて切なくて、でも本当にちょっとしたことでバカみたいにしあわせな気持ちになれる十年だった。
ついさっきまではそんな日常の続きだった。日常、と呼べるくらいに長い長い年月を一緒に過ごしてきた。
今さら、今さらどうして、終わりにしよう、なんて。
唐突すぎる結末に、心がついていけない。
明日はもう寝起きの悪いヴィーを起こす必要がないなんて。お茶だけは味にうるさいヴィーのために全神経を集中してお茶を淹れる必要がないなんて。気づいたら散乱している本を片ししつつこっそりエロ本がないかチェックする必要がないなんて。
信じられないし、想像もつかない。未来予想は真っ黒に塗りつぶされている。
こんな、こんな苦しい想いなんて、いらなかった。
叶わない恋に身を焦がした十年なんて、忘れてしまいたかった。
ヴィーを好きになる前の、私に戻して。
咲き続けて疲れて、枯れてしまった花が種を落として、違う花を咲かせるみたいに。
ヴィーの色に染まった心を洗濯して、まっさらな自分にならないかぎり、もう一歩も踏み出せないだろうから。
「たしかに、はっきりしなかった僕も悪かった。君の言い分もわかる」
ヴィーは、表情を変えない。
悲しいくらいに、無表情のまま、うんうんとうなずく。
私が泣いたところで、ヴィーにとってはどうでもいいこと。
ヴィーの心を動かすことは、私には無理。
それを、改めて思い知らされた。
「だから、返してあげる。君の十年を」
ケロリと、ヴィーは言ってのけた。
「……は?」
「君を十六歳に戻してあげる。バージンも返してあげる。住む場所も働き口も用意しておいたから、安心して二度目の青春を謳歌してね」
「ちょ、ちょっちょちょちょっと待って、初耳なんだけど!?」
そんな魔法まで使えることも知らなかったし、住む場所とか働き口とか、どういうこと!?
ヴィーは説明する気もないようで、何やら呪文を唱えだす。
もしかして、もう!? 心の準備もさせてくれないの!?
「ごめんね」
一瞬だけ目があって、すぐに赤い瞳が伏せられて、そして一言。
それが呪文の最後だった。
ううん、呪文じゃない。ヴィーの言葉。
なぜかはわからないけど、一番、心がこもっているように聞こえた。
私が何を言うより前に、あたりに光が満ちて。
まぶしさに目をつぶった私が、次に目を開けたそのときには。
もう、目の前にヴィーはいなくて。
見回すと知らない町並みが広がっていて。
足下には子どもが入りそうなくらい大きな旅行カバンがあって。
知らないうちに握っていたメモ紙には、これからどこに行けばいいかヴィーの文字で書かれていて。
急なことだったのに、準備万端すぎる。と私はあふれる涙を拭うことしかできなかった。