ついうっかり、というものは誰にでもあると思う。
ちょうど、今の僕のように。
常に上から目線の彼女に、僕はついうっかり言ってしまったのだ。
言ったところで、無駄だったと気づいたのは、そのすぐあと。
「個人として見て欲しいという世迷言を言う暇があるのなら、もっと他にやるべき義務があるのだからそちらを優先して下さらない?」
彼女の言葉は、よく研いだ包丁のように僕の心に刺さった。
痛い……即死レベルだ。
今ここで精神的な理由で心停止とかしたら、彼女に殺されたことになるんだろうか。
彼女は殺人犯として捕まるんだろうか。
だったら死ぬわけにはいかない。彼女を犯罪者にしてはいけない。
耐えろ、耐えるんだ。痛くない痛くない。
「何か言ったらどうなの?」
心の傷により黙りこんでいた僕に、彼女は追撃する。
僕を映す真っ黒いきれいな瞳はドライアイスのように冷たく、いたずらに触れれば怪我をしてしまいそうだ。
「他にやるべき義務って……何かな」
「そんなこと、決まっているでしょう?」
心の痛みを必死にこらえながら問いかけると、彼女は馬鹿にするような目を向けてきた。
見下ろしているのは僕のほうなのに、見下されているように思えてくる。
彼女の視線と言葉はそれほどに情け容赦なく僕を責め立てていた。
「私と遊ぶことよ!」
ビシィッ!! と、彼女は人差し指で僕を指して言った。
ご丁寧に、もう片方の手は腰に添えられている。
命令し慣れているように見えるのは、彼女の立場を思えば当然だろう。
まだ十にも満たない彼女は、大会社の社長令嬢なのだから。
「お前は私の下僕なのだから、私の言うことを聞くのは義務よ! 私と遊びなさい!」
「そんなだから、個人として見てほしいって思っちゃうんだけどね……」
ひどい言いように素直にうなずけずに、彼女には聞こえない小さな声でつぶやく。
遊ぶのはかまわない。それが僕の役目でもあるから。
僕は弱小企業の社長の次男坊。彼女と年が近いから、遊び相手にと連れてこられた。取引先の愛娘の機嫌を損ねるわけにはいけない。たとえ下僕と呼ばれようと、本当なら笑顔でうなずかなければいけない。
でも、もう少し言葉を選んでほしいと思うのは、いけないことだろうか。
立場的には僕のほうがだいぶ下で、下僕とそんなに違いはないのかもしれない。
だけど僕も君と同じ人間なんだよ、と。言ったところでこのお嬢さまには通じるのだろうか。
甘やかされて育ったお嬢さま。
何もかもが自分の思い通りになると信じている、わがままお嬢さま。
僕もきっと、彼女の小さな世界の駒の一つでしかないんだろう。
「何よ。私はちゃんと個人として見てるわよ。お前だから、下僕にしたのよ」
形の整った眉をきゅっと寄せて、彼女は不機嫌そうな顔を作る。
どこか、泣き出しそうな顔にも見えた。
言葉の意味をすぐには理解できず、僕は首をかしげた。
そんな僕を、彼女は揺れる瞳で見上げてきた。
「……それとも、私と遊ぶのはいや?」
かすかに震えているその声に、彼女は気づいているんだろうか。
望めばなんでも手に入るお嬢さまは、自分から手を伸ばすのは苦手のようだ。
思わず、かわいいと思ってしまった。
こんなところで、普通の子どもみたいに不安そうな顔をするなんて、卑怯にもほどがある。
これじゃ、僕が折れるしかないじゃないか。
「嫌なわけないよ、僕のお姫さま」
小さな手を取って、そっと手の甲に口づけた。
それだけで頬を赤らめる彼女は、わがままお嬢さまでもなんでもなく、ただの女の子のよう。
こんなにかわいい子と遊べるなら、まあ、義務は義務でも楽しい義務だろう。
できるかぎり、優先してあげたくなる。
彼女を甘やかす大人の気持ちが、ちょっとだけ理解できてしまった。
行き過ぎたわがままは注意しないといけないけど、かわいいわがままなら叶えてあげてもいいかな、と思えた。
今はまだ、義務だけれど。
きっとすぐにそんなものどうでもよくなる予感がした。
君が望むなら、僕はずっと、君の傍にいてあげるよ。
小さなかわいい、僕のお姫さま。
「書き出し.me」にて書いたお話を大幅に加筆修正しました。
元文はこちら。
書き出し:「個人として見て欲しいという世迷言を言う暇があるのなら、もっと他にやるべき義務があるのだからそちらを優先して下さらない?」