「君の傘に入れてくれない?」
大学の正門を一歩外に出たところで、紗枝は唐突に声をかけられた。
もっとも彼――
宮城薫が唐突でなかったことなど、今まで一度もなかったが。
そう、あの時だって……。
同じ場所、同じ声、かすかな絵の具の匂いまで同じ。
無視して帰ろうか一瞬迷いながらも、仕方なく紗枝は振り返る。
青年は寄りかかっていた門柱から身を起こし、柔和な容姿に似つかわしい笑みをたたえていた。
綿菓子のような亜麻色の髪。砂糖が何杯も入っていそうな甘い紅茶色の瞳。
染めているわけでも外国の血が混じっているわけでもないらしい。
嫌々ながらも知っているのは、情報通の友人から親切ごかしに教えられたからだ。
「あなたには必要ないじゃない。
それとも、男のくせに紫外線なんて気にしているの?」
呆れたように、もしくは挑むように、紗枝は薫を睨んで言い返す。
効果音をつけるなら、じとり、といったところだろう。
たとえ先輩だろうが何だろうが容赦はしない。
紗枝は自分のペースが狂わされることを何よりも嫌っていた。
「心の雨が止むまででいいんだ」
詩人、という言葉が浮かぶよりも前に、電波が飛んでいるのではと思ってしまう。
根っからの理系人間の自分には、芸術肌と称されるこの男がまったくもって理解できない。
理解しようという気さえ起きなかったけれど。
「これは日傘。
雨を凌ぐことはできないわ」
ため息をついて、紗枝は告げた。
ふいっと身をひるがえし、薫を無視して帰り道を歩く。
日傘によって起きた風で絵の具の匂いが薄まり、なぜか安堵した。
「冷たいなぁ。
理由は訊いてくれないの?」
薫は当然のように紗枝の後をついてきた。
しつこさは知っていたし、いつものことなので気にしないようにする。
厄介なことに、駅までの道のりは同じなのだ。
「興味ないもの」
紗枝はつんと澄まして答える。
「そうやって君がつれない態度を取るたびに、僕の心に冷たい雨が降る。
雲から顔を出して、この憂いを晴らしてくれるつもりはない?」
低音が、紗枝の鼓膜を揺らした。
真剣みを帯びた声。からかうような響きは含まれていない。
この、声だ。
切なげで、やわらかな低音が、危険なのだ。
思わず、絆されそうになってしまう。
紗枝は耳をふさぎたくなった。
動揺を顕にすれば余計に相手の思うツボだろうから、しないけれど。
「……それなら今頃は土砂降りね。
あきらめなさい」
薫から自分が見えないように日傘でさえぎり、強がりを口にする。
白い日傘だから雲に喩えたのだろうか。
けれど自分は太陽になんてなれない。体温を奪う雨や尖った氷柱のほうがお似合いだ。
理数系を専攻する女子はあまり多くない。日常的に異性に囲まれて学ぶ中、紗枝は女だからと侮られることが一番嫌いだった。
女は感情的と決めつけ優位に立とうとする男も、逆に変に甘やかそうとする男もいた。
そういった輩を一睨みではねつけ、時には論で叩きのめし、得たのは教師の信頼と理解ある友人。
代わりに可愛らしさを失った、と友人に揶揄されたことがあるが、紗枝は特に後悔していない。
それなのに、薫は睨んでも言葉で拒絶しても、まったく堪えない。
いくら紗枝が冷たくしようと、あきらめずに強引にでも近づいてくる。
恋愛なんて興味ない。必要もない。面倒なだけだ。
そう思っているはずなのに、いつからか言い合いを楽しんでいる自分に気づいてしまって。
ありえない。こんな男のことを好きになるはず……ない。
紗枝は半ば自棄になっていた。
「傘に入れてもらうのを?
付き合ってほしいと言ったのを?」
薫は分かっているだろう問いをしてきた。
振り向いて確認したりはしないけれど、薫は今、絶対に笑っている。
少しずつその手に落ち始めた紗枝のことを、楽しそうに。
*
桜の散る季節。
紗枝は今と同じ場所で彼に声をかけられた。
『どんなに可憐な花でも、凛と咲き誇る君という花には敵わない。
君の花盗人になってもいいかな?』
およそ現代日本で聞くことはないだろう、歯の浮くような台詞。
意味を取りかね、訝しげに眉をひそめた紗枝に青年はふわりと笑みをこぼす。
『付き合ってほしいということさ』
足された言葉に、やっと告白されているのだと気づく。
決して紗枝が鈍いわけではない。彼の突飛な言動が理解しがたいのだ。
告白の前に名乗ることも、初めましての一言すらなかった。
よく知りもしない相手と付き合うなんてありえない。紗枝はそう言って断った。
断った、はずなのに。
『必ず、君は僕を好きになるよ』
自信満々に彼は断言した。
*
「両方よ」
紗枝はキッパリと言った。
あれから薫は、こうして暇さえあれば紗枝に付きまとう様になった。
桜が散り、梅雨が明け、日差しが肌に刺さる季節になっても。
いつまで強がり続けていられるだろうか。
ため息をつきたくなって、けれどそうしたら弱みを見せることになる気がして。
結局、口を真一文字に引き結ぶだけに留める。
「残念」
薫の笑みを含んだ声が聞こえた。
今、振り向いたら、きっととろけるような笑みに魅せられてしまうから。
ただ前を見て、足を動かすことにだけ集中した。
日傘で、彼の熱のこもった視線をさえぎりながら。
【見解】有害性のあるものには変わりない。