いつからだっただろうか。
カップの中のきれいな紅茶の水色を眺めながら、
譲梨はぼんやりと思い返す。
目の前に座る男性と出会ったのは、半年前。この学院に入学してすぐのこと。
こうして一緒にお茶を飲むようになったのは、四ヶ月ほど前から。放課後に唐突に誘われ、今では週に一度、この部屋を訪れている。
では、譲梨がこの人に気を許すようになったのは、いつからだっただろう。
「どうかしたのかな?」
「いえ、なんでもありません」
心配そうにこちらを見てくる男性――
煌に、譲梨は微笑を返す。
そうか、と煌は言いつつも、完全には納得していないようだ。
具合が悪いわけではない。
少し、考えるところがあっただけ。
昨日見た夢のせいだろうか。
ただ、煌と二人、木の葉の絨毯が敷きつめられた並木道を歩いていただけの夢。
譲梨は隣の彼を見上げ、しあわせそうな笑顔を浮かべる。
彼もそれに同じような表情を返してくれる。
煌と譲梨の手はしっかりと、まるで恋人のように握られていた。
どうということのない夢だ。前後の流れも、交わした言葉も覚えていない。
よく言われるように願望の現れだったとしても、抽象的すぎるだろう。
それなのに、なぜか譲梨は忘れられずにいた。
今日は何度もぼんやりとしてしまって、友人にも心配された。
「調子が悪いのなら、元気の出るハーブティーでも出そうか?」
「大丈夫です。心配をおかけしてしまってすみません、先生」
気を使ってくれた煌に、申し訳ない気持ちがわき上がり、譲梨は謝った。
煌は優しい。ただの学院の一生徒である譲梨にもこうして気を配ってくれる。
先生と呼んでいるけれど、煌は授業は受け持っていない。
学院に籍を置きつつも、先生でも生徒でもない煌は不思議な立ち位置だった。
譲梨も詳しくは知らない。ただ学院で難しい研究をしているのだ、ということしか。
茶飲み友だちと言ってもいい関係なのに、彼のことで知っていることはあまりないのだ。
「心配だが、君が大丈夫だと言うなら信じよう」
「はい、大丈夫です」
「だが、今の君には薬が必要なようだ」
煌の言葉に、譲梨は首をかしげる。
薬と、煌は言った。
大丈夫という言葉を信じるといった、そのすぐ後に。
いったいどういうことだろうか?
煌の研究は薬を作るものだと、女生徒が噂をしていたのを聞いていた。
それが真実なのかどうか、譲梨は煌に確かめてはいない。
答えてもらえなかったら悲しいからかもしれない。それほど親しいわけではないのだと思い知らされたくなかったから。
答えを聞くのが怖かったからかもしれない。どこまで踏み込んでいいものか、わからなかったから。
「これを食べるといい」
そう言って煌が目の前のテーブルに置いたのは、綺麗な焼き色のパウンドケーキだった。
「ケーキ、ですか?」
「糖分は脳への栄養になる。甘いものを食べれば気分も晴れるだろう」
「それは、そうかもしれませんが」
いきなりだったので驚いた。
もしや、今日のために用意しておいてくれたんだろうか。
目の前に出されたパウンドケーキはすでに切られていて、皿の上に乗っている。乾燥しないようにとラップまでかけられて。
プレーンな卵色をしていて、少々いびつな形から手作りのようにも見えるが、実際のところはわからない。
煌がケーキを作る姿だなんて想像もできなかった。
「大丈夫。君に毒を盛ったりはしないよ。このケーキにはしあわせになれるものしか入っていない」
「その言葉はすごく怪しいんですが……」
そう言いつつも、譲梨はケーキに手を伸ばした。
もしも毒を盛るならすでに紅茶に入っているだろう。
大丈夫。信用している。煌は優しい。
どんな研究をしていたとしても、目の前のこの人は譲梨を傷つけたりはしない。
ほとんど彼のことを知らなくても、そのことだけは信じられた。
「いただきます」
めしあがれ、という声を聞きながら、ケーキを口に運ぶ。
ふわり、というやわらかい食感と、優しい甘み。
「……おいしい」
自然と笑みがこぼれた。
素朴な味のパウンドケーキに、やはり手作りだろうかと譲梨は思った。
「ね、しあわせになれただろう?」
「そうですね」
言った通りだったろう、とでも言いたげに、煌はニヤリと笑う。
否定する気もなかったので譲梨は素直にうなずいた。
「そもそもせっかく二人きりなのに毒を盛るわけがないじゃないか。そんなことをして次から君が来てくれなくなったら本末転倒だ」
「ちゃんと来ますよ。約束ですから」
そう言って微笑みながら、譲梨は二ヶ月と少し前のことを思い出す。
初めのころは、また今度、というあいまいな約束だった。
毎週金曜日の放課後に、と約束が取りつけられたのは、煌の訴えがあったからだ。
会うのに二週間ほど間があいたとき、まだ授業のあった譲梨を無理やり引き連れてこの部屋に来た。
『僕は君と会う時を楽しみにしていたというのに、君は僕のことがどうでもいいのか』
そんな子どものようなことを言った煌に、どうでもよくなんてないと譲梨は答えた。
そして、だったらしっかりとした約束をしようということになった。
何が煌をそんな行動に移させたのかは、いまだにわからない。
それでも、わがままを言ってくれるほどの仲なのだと思って、譲梨はなんともくすぐったい心地になったものだった。
「いつか約束がなくとも君が僕の元を訪れてくれる日がくればいいんだけどね」
どこか寂しそうな煌の微笑みに、譲梨は言葉を間違えただろうかと心配になった。
煌は忙しい身だ。一緒にお茶を飲みながらも何か書類を読んでいることも幾度かあった。
研究というのはきっととても大変なものなのだろう。
だから、約束の日以外に会おうなどとは思わなかったのだけれど。
「あの……ケーキ、先生は食べないんですか?」
何もかける言葉が思いつかなかった譲梨は、苦肉の策とばかりにパウンドケーキを勧めた。
「もちろんいただくよ。君が独り占めしたいと言うなら別だが」
「いえ、一緒に食べましょう。おいしいものは誰かと食べるほうがもっとおいしくなりますから」
「君らしい理論だね」
譲梨の言葉に、煌は朗らかに笑った。
その笑顔が、夢で見たものと重なって、譲梨の胸は鼓動を早めた。
しあわせそうな、相手を愛おしいと思っているような、そんな笑顔。
違う。あれは夢だ。期待なんてしてはいけない。
赤くなっているだろう頬を隠すように、譲梨はうつむいてケーキを頬張った。
「おいしいね。君と食べているからかな」
そんな、誤解させそうなことを煌は言う。
胸の高鳴りは、しばらく鳴り止みそうになかった。
****
「単純だね、譲梨は」
譲梨の帰った後の部屋で、煌は一人つぶやいた。
誰にも聞かれない言葉。誰もその意味を知らない言葉。
「そこが彼女の良いところだが」
煌は笑う。先ほどのような明るいものではなく、何かを企んでいるかのような暗い笑み。
目の前には何も乗っていない白い皿。
そこに鎮座していたケーキは、すでに譲梨と煌の腹の中だ。
煌が自分の手で作ったパウンドケーキ。
おいしいと彼女は言ってくれた。
それはそうだろう、煌の万感の想いが込められていたのだから。
煌は嘘は言っていない。
毒は盛っていない。有害ではないから毒とは言わない。
少しだけ、心拍数を高める薬。
ケーキに入っていたのはそれだけだ。
「罠というのは知られないように張るべきものだからね」
ふふっ、と煌はかすかな声をもらす。
初めて彼女を見たときに湧き上がった、自分だけのものにしたいという渇欲。
彼女と二人の時を重ねるごとにそれは高まり、今では抑えきれないほどに強まっている。
自分でも恐ろしくなるような執着心。傷つけたくないけれど、煌の手で傷つく彼女も見てみたいと思ってしまう。
目をつけられた彼女を哀れだと思う気持ちもなくはない。それでも諦められないのだから仕方がない。
子うさぎが手の内に転がり込んでくるのは、いつのことだろうか。
罠にかかったのだと気づくのは、いつのことだろうか。
できるだけ早ければいい。
もう、あまり我慢は利かないだろうから。
煌はその日を楽しみにしながら、譲梨の出て行ったドアを眺めていた。
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『青年×少女ったー』
midori_tyaは研究者でヤンデレな青年と儚げで女学生な少女がお菓子を食べている場面を描いて下さい。