はじめて彼を見たとき、私は思ったのだ。
光の神さまだ、と。
「本日よりセーシエ王女殿下付きの任を賜りました、キーシ・サーン・ダーイキゾクと申します。命に変えてもあなたさまをお守りいたします」
三歳になったばかりの私の前に跪いたのは、まだ少年と呼んでもいい年頃の騎士。
窓から差し込む陽光に、金の髪が輝きを増していて、私はしばし見惚れてしまった。
同時に、謁見の間の壁画を思い出した。
光の神さまの髪は、たしかこんなふうにキラキラと光を放っていた。
「……セーシエ様?」
ひかえめに声をかけられて、私ははっとする。
王女である私を守る騎士を決めるのは父王でも、それを受け入れるのは私自身。
許す、と言わなければいけないのだ。
そんな当たり前のことを忘れてしまうくらいに、少年に見入っていた自分が恥ずかしい。
「これから、よろしくお願いします」
私はそう言って、片手を差し出す。騎士の忠誠の口づけを受けるために。
キーシは私の小さな手を恭しく取り、触れるか触れないかの口づけを手の甲に落とした。
ドキッ、と私の胸が大きな音を立てた。
まるで大声で驚かされたみたいに、鼓動が落ち着かなくなる。
その理由は、まだ幼い私にはわからなかった。
キーシはとても真面目で、手を抜くということを知らなかった。
よく転び、よくどこかにぶつかる私は、彼の目に危なっかしく映ったのかもしれない。
少しでも私に危険なものが近づいたなら、全力でそれを排除した。
たとえば、犬や猫、果ては小鳥まで。
噛まれるかもしれません、蹴られるかもしれません、突かれるかもしれません。
底なしの心配性だった。
私がかわいいもの好きだと知っていた侍女が、飼っている猫を城に連れてきてくれたことがあった。
キーシは私と猫の間に割って入って、どこうとはしなかった。
どうしても猫に触れたかった私は、何度も頼み込んだけれど、キーシは首を縦に振ってくれない。
しまいには癇癪を起こして大泣きしたことで騒ぎが大きくなってしまった。
お前はもう少し加減を覚えろとキーシが上司に怒られたことを、私はあとになって知った。
そんな、真面目一辺倒なキーシとの日常は、穏やかに過ぎていく。
光の神さまのような金髪は、いつでも私の目にまぶしく映る。
四歳になったころ、私はとうとう彼の口癖に物申した。
「命に代わりはないのよ。命に変えて、なんて言っちゃダメ」
私の言葉に、キーシは本当に困ったような顔をした。
彼にとっては、なぜ私がそんなことを言うのかわからなかったのかもしれない。
けれど、これは私も譲れなかった。
『命に変えてもお守りいたします』
これは、キーシの口癖だった。
何度も何度も言うものだから、私はお説教することにしたのだ。
命を大切にしなさい、と。
キーシの命は、キーシのものだ。
一つしかない大切な命を、他人のために使うのはおかしいではないか。
「ですが、セーシエ様は俺の命よりも大事なお方です」
そんな反論に、私はむうっと頬をむくれさせた。
わからず屋のキーシに腹が立って……それ以上に悲しかった。
「命には順番もないの。みんな同じくらい大事なんだって、光の神さまだって言っているでしょう?」
この国は信仰の自由が保証されている。
とはいえ、貴族を筆頭に王都の者には光の神信仰が根強い。
光の神さまを持ってこられては、キーシもこれ以上言い返すことなんてできないだろう。
思っていたとおり、キーシは言葉をつまらせた。
私はそんなキーシの足元まで歩いていき、当然のように膝を折った彼の手に触れる。
「それに……私は、キーシが死んでしまうのは嫌よ」
キーシの空よりも青い瞳をまっすぐに見つめて、私は言った。
このぬくもりが失われる日が来るかもしれないだなんて、考えたくもなかった。
もちろんそれは、私が知っている人全員に言えたことではあるのだけれど、キーシは中でも特にだ。
そのくらい、私にとってキーシは特別な人になっていた。
私を守ることに一切妥協をしない人。
光の神のようにまぶしく強い人。
自分の前からいなくなってほしくない。
ずっと一緒にいたい。
幼心に、そう感じていた。
「セーシエ様は、お優しいのですね」
「? 私は普通よ」
わけのわからないことを言うキーシに、私は首をかしげた。
かわいいだとか、きれいだとか、すばらしいだとか、天才だとか、神童だとか。
今までたくさん褒められてきたけれど、それはすべて自分が王女だからだとわかっていた。
でも、キーシのその言葉は、いつものものと少し違って聞こえた。
キーシが実直な性格をしているからだろうか。
その青い瞳に偽りの色が見えないからだろうか。
それとも、心からの笑みを浮かべているからだろうか。
「いいえ、セーシエ様はとても優しいお心をお持ちです」
キーシの声は、言葉は、どこまでもまっすぐで、曲がったところがなく。
一直線に私の心にまで届いた。
本当に、心からそう思っているのだと、伝わってきて。
生まれて初めて、褒め言葉に感動を覚えた。
その瞬間から、キーシは私にとって、特別な存在となった。
《おーい、おーい、お前だよお前。聞こえてんだろ》
唐突に、そんな声が聞こえるようになったのは、六歳のときだった。
それは前振りも何もなかった。
歴史の勉強を教わるために、移動している最中のことだった。
「……気のせいかしら?」
《ちげーよ。勝手に幻聴にすんなよ》
訝しげにつぶやきを落とすと、謎の声に即座に否定された。
《俺様は聖剣だ。王族ならそれっくらい知ってんだろ》
謎の声の自称に、私は目を見開いて立ち止まった。
聖剣とは、王宮の聖剣の間に大切に保管されている、初代勇者が光の神から授けられた剣のことだ。
この世に二つとない、至上の宝。
聖剣は意志を持っている。
彼の者の声を聞くことができるのは、王家の血筋の者のみ。
これは物心ついたかつかないかくらいの市井の子どもでも知っているようなことだった。
聖剣の声を聞くには、ある程度成熟しなければいけない。
声を受け取るためには、安定した魔力が必要だからだ。
セーシエならあと五年もすれば聞こえるようになるわよ、と一番上の姉に言われたのはつい最近のこと。
六歳で聖剣と意思の疎通ができるようになるなんて、聞いたこともない。
いくらなんでも、早すぎる。
なぜだろうか。すごく、嫌な予感がする。
「セーシエ様?」
急に立ち止まった私に呼びかける声がする。
いつもどおり護衛についていたキーシだ。
聞き覚えのある声に、私はほっと息をついた。
そして、これから自分がどうすべきかを考えるだけの余裕ができた。
「キーシ、私はこれから陛下に会いに行くわ。ついてきて」
「えっ、歴史の先生がお待ちですよ!?」
「緊急事態よ。先生にはあとで私から理由を説明して謝るわ」
それだけ言うと、私は踵を返して国王の執務室へと足を進めた。
時間的にはちょうど執務を休憩しているころだろう。
頼み込めば、少しくらいなら話を聞いてくれるはずだ。
《勉強かー。大変だな。ま、お前には俺にふさわしい教養を身につけてもらわねぇと困るけどな》
「ふさわしい……?」
意味がわからなくて、思わず聞き返してしまった。
「せ、セーシエ様……?」
キーシには聖剣の声は聞こえない。
彼には私が独り言を言っているようにしか思えないのだと、戸惑いの声をかけられて気づいた。
私は、コホン、と咳払いをした。
「……私が何か変なことを言っても気にしないでね」
悩んだ末に、私はそう言いつけることしかできなかった。
早熟とはいえまだ子どもの私には、こういうときにどうごまかせばいいのかわからなかった。
キーシがうなずいてくれたことに安堵しながら、私は足を進めながら聖剣の声に耳を澄ませる。
返ってきた答えは、予想もしていないものだった。
《お前は誰より優しく賢くならなきゃいけないんだ。なんてったって、お前は聖女になるんだからな!》
「えええっ!?」
大きな声を上げて、近くにいた人の目を集めることになってしまったのだけれど。
それも致し方のないことだろうと私は思う。
聖女。神殿で最上級の位。光の神の声を聞く者。
まさか、自分が聖女になるだなんて、簡単に信じられることではなかった。
これはますます、国王と話をする必要がありそうだ。
父王に、どう話せばいいのか、これからどうなるのか。
不安に胸が嫌な鼓動を刻むけれど。
三歩後ろをつき従う足音に、少しだけ慰められている自分がいた。