学年が変わっても、社会科資料室で本を読む習慣は変わらなかった。
変わったのは、そこに佐伯先輩の姿がないということ。
本を読む私を邪魔する人が、いないということ。
静かな空間が戻ってきて、喜ばしいはずなのに、なぜか心にぽっかりと穴があいたような思いがした。
社会科資料室で本を読んでいるとき、ふと顔を上げて窓の外に視線をやってしまう自分がいた。
窓の外に、あの色素の薄い髪が見えないかと、無意識に探してしまう。
自分がどれだけ彼との時間を大切にしていたのか、会えなくなってから気づいた。
告白を断ったのは自分なのに、今さら何を、と思うけれど。
もしもあの時、違う答えを出していたら、どうなっていたのだろう。
そんな馬鹿げた空想が、頭の片隅に張りついていた。
佐伯先輩のいない日々は、ゆっくりと、けれど確実に過ぎていった。
一年が経って、二年が経って。
無事に志望校に合格し、私も中学校を卒業した。
卒業式が終わったあと、私は初めて裏庭に行った。
社会科資料室の窓を見つけて、黙したまま中を覗き込んだ。
かつて彼が、見ていた景色。
佐伯先輩はどんな想いで、ここに立ち、この部屋を……私を見上げていたのか。
同じ場所に立ってみたところで、わかるわけがない。
それでも、ツキンと針が刺さったように胸が痛んだのは、ただの感傷だったのだろうか。
予想もしていなかった再会を果たしたのは、高校生になって一ヶ月ほど過ぎたころ。
新しい生活がスタートし、中学生のときとはレベルの違う授業についていくのがやっとだった。
私が通うことになった高校は、県内でそれなりに有名な進学校。
毎日片道三十分も電車に揺られなければならないのは面倒だけれど、進学校にしてはのびのびとした校風が過ごしやすく、受かってよかったと思っていた。
進学校だからということもあるのか、周りには中学のときよりも本好きの人がちらほらいた。
中には私のように、とりあえずなんでも読むという本の虫もいて、最近読んだ本の話ができるのが楽しかった。
その日も、図書室で借りた本を持って、教室で待っている友人の元へ向かう途中だった。
「――篠塚?」
廊下を歩いていたときに声をかけられ、私は振り向く。
驚きに目を丸くした男性が、そこにはいた。
見上げるほどに背が高く、容姿も整っていて、髪は日に透けるような薄茶色。まず間違いなく女子に騒がれているだろう美形だ。
ネクタイの色から先輩だということはわかったが、肝心の彼が誰なのかがわからない。
こんなキラキラとした知り合いは私にはいない。
「たしかに私は篠塚ですが、どちらさまですか?」
「え、ひどいな、忘れちゃったの?」
訝しげに問いかけると、男は目をまたたかせる。
その表情はとても自然体で、初対面とは思えない気安さがあった。
自分が忘れているだけなのだろうか、と記憶を探ってみても、目の前の男と一致する顔はない。
私が思い出せずにいることを見て取ったらしく、美形の男性は弱々しく微笑んだ。
「過去に振った男なんて、記憶にとどめておく価値もない?」
その言葉に、私はぽかんと口が開くほどに驚いた。
過去に振った男。それに該当するのは一人しかいない。そもそも告白されたこと自体一度しかない。
目の前の男性は、多少中性的だが背も高く適度にがっしりとしていて、かわいらしかった彼とは似ても似つかない。
けれどよくよく見てみれば、面影はそこかしこに残っていた。
やわらかそうな薄茶の髪。二重まぶたに大きな瞳。垂れ気味の優しげな目尻。そして何より、笑い方。
記憶の中の彼と、目の前の男が重なって見えてくる。
「……佐伯先輩?」
「うん。よかった、忘れられてなくて」
確かめるように呼んでみると、男はほっとしたように笑みをこぼした。
本当に佐伯先輩なのだと、その表情を見て実感した。
彼らしい、見ている人をも元気にするような朗らかな笑顔。
最後に見たのが悲しげな微笑みだったせいか、久しぶりに見た彼の笑顔に、なぜか少し泣きそうになった。
「この学校、だったんですね」
「そういえば進学先の話をしたことはなかったね」
今さら気がついたとばかりに佐伯先輩は言う。
どうでもいいことはいくらでも話していたというのに、彼の進路は知らなかった。
聞いたのは、第一志望の高校に受かった、ということだけだった。
その時にどこの高校なのか尋ねなかった私もいけなかったのかもしれない、と今なら思える。
「お久しぶりです、佐伯先輩」
軽く頭を下げながら、私は自然と微笑みを浮かべていた。
こうしてまた佐伯先輩と話すことができるとは思ってもいなかった。
再会を約束するものなんて、何もなかった。
同じ中学校といっても、それほど都会ではないため学区は広い。
まさか、地元から少し離れた高校の先輩と後輩として、再び顔を合わせることになるとは。
世の中何があるかわからないというのは本当らしい。
「久しぶり。変わってないね、篠塚は」
「佐伯先輩は変わりすぎです。全然わかりませんでした」
長身の彼を見上げて、私は言う。
背もだいぶ伸びたようだし、身体つきも変わった。
やわらかな丸みのあった頬の肉は落ち、顎のラインもシャープになっていて、よくできたマネキンのように全体的にバランスが整っている。
変声期はとっくに終えたようで、声は男性らしい落ち着きを持ち、甘みを感じさせる低音が耳をくすぐる。
女の子よりもかわいらしかったかつての佐伯先輩は、もういない。
今、目の前にいるのは、どんな女の子も一目で夢中になってしまいそうな、立派な美男子へと成長を遂げた佐伯先輩だ。
「そうだろうね。
でも、変わってないところもあるみたいだ、残念ながら」
佐伯先輩は眉尻を下げ、苦笑をこぼす。
見た目は変わっても、彼の見せる表情は変わらない。
きっと、明るい性格も、誰にでも優しいところも、変わってはいないんだろう。
けれど佐伯先輩が言いたいのは、そういうことではないようだ。
何が残念なのか、私にはわからなかった。
四ヶ月前、先輩と私は再会し、ここからまた物語は動き出し始めた。