第三話 三年近く前の先輩と私の日常

 それから佐伯先輩は、だいたい一週間に一回くらいのペースで、社会化資料室の窓の外にやってきた。
 窓枠に腕を乗せて、そこから顔を覗き込ませて。
 机に座って本を読んでいる私に、他愛ない話を振ってくる。
 私は気が向いたときにだけ、それに答える。
 相づちしか打たないこともあった。二人してずっと黙り込んでいることだってあった。
 何が楽しいのかはわからないけれど、先輩はいつでも笑顔だった。

 定期的に佐伯先輩が訪れるのは、陸上部を引退したばかりで暇だったということもあるだろう。
 こんなところで油を売っていていいのか、受験生。
 そう思ったし、それを本人に言ったこともあったけれど、いい気分転換になっていると言われてしまえばもう何も反論はできなかった。
 窓の外に薄茶の髪が見えるのを、いつのまにか心待ちにしている自分に気づいてしまったから。

「ねえ篠塚、本ばっか読んでないで、かまって」

 今日も今日とて、佐伯先輩は私に話しかけてくる。
 にこにこと惜しげもなくかわいらしい笑みを振りまきながら。
 思わず顔を上げてしまった私は、その笑顔にほだされそうになりながらも、本に視線を戻した。

「読書の邪魔はしないって約束しましたよね」
「なるべく、でしょ。今は例外ってことで」
「例外が多すぎます」

 ため息混じりに私が言うと、佐伯先輩はあははっと明るい笑い声を響かせた。
 いったい何が楽しいんだろうか。
 私と話しているとき、佐伯先輩はいつも笑っている。
 どうしてそんなに楽しそうにしているのか、私にはわからない。
 別に私はそれほど変なことは言っていないと思う。そもそも言葉を返さないことだってあるのに。
 佐伯先輩の笑いのツボが謎すぎる。
 嫌な感じはしないから、ただ不思議に感じるだけなのだけれど。

「だって、篠塚はここに本を読みに来てるけど、俺は篠塚に会いに来てるんだからね。しょうがないよ」

 陽気に弾んだ声で、佐伯先輩は言う。
 きっと満面の笑みを浮かべているんだろうと、見なくてもわかる。
 佐伯先輩と話すようになって知ったことがある。
 彼は天然タラシだ。意識することなくその口からは甘い言葉が吐き出される。
 それはこうして、けっこうな頻度で私すらも襲うのだ。

「守るつもりのない約束はすべきではありません」
「約束しなかったら、ここに来るのも駄目って言われそうだったし」

 よくわかっているじゃないか。
 あそこで佐伯先輩がうなずかなかったなら、私は本を読む場所を変えていただろう。
 ここほど好条件な場所は見つけられなかったかもしれないけれど、それもいたしかたないこと。
 にも関わらず、あの時の佐伯先輩の了承を信じたがゆえに、読書の邪魔をされている現状があるわけで。
 今からでもそうするべきなんだろうか……という考えは、答えを出す前に消えていく。

「口先だけの男は信用を失いますよ」
「篠塚だけ信じてくれてればそれでいいよ」

 佐伯先輩の言葉に、本を読む手が止まった。
 文字がうまく頭の中に入ってこない。
 どうしてこう、彼の言葉はいちいち甘ったるいんだろうか。
 口の中にミルクチョコレートをぶち込まれたような気分になる。
 無視することもできなくて、私は仕方なく顔を上げる。

「……私が、真っ先に約束を破られているんですが」

 じとーっとした目を向けても、佐伯先輩は気にせず笑顔のままだ。
 最初のときを除き、笑顔以外の表情を見たことのほうが少ない気がする。

「でも、篠塚は結局こうして俺の相手をしてくれてるよね。
 なんだかんだで優しいんだから」

 ふふっと、思わずこぼれ落ちたかのようなやわらかく甘い笑みを、佐伯先輩は惜しげもなく私にさらしてみせる。
 優しいと言われるようなことをした覚えなんてない。
 あれか、前に私が言ったよかった探しでもしているのか。それにしたって私が優しいとか見当違いじゃないのか。
 というか私、いいようにごまかされていないか。

「佐伯先輩は少しその口を閉じることを覚えたほうがいいと思います」
「篠塚にはなんでも話したくなっちゃうんだよ」
「……そうですか」

 この、天然タラシめ。
 邪気のない笑みを見せられると、こちらとしても文句を言う気が失せるというもので。
 結局は今日も佐伯先輩に完敗だ。勝てる気がしない。
 先輩に見せつけるように、大げさにため息をつく。
 彼がそれくらいでへこたれるような人ではないとわかっているからできることだ。

 佐伯先輩が来るようになってから、ここは以前のような静かな場所ではなくなってしまった。
 はっきり言って、本を読む環境としては適していない。
 それでも、私はここ以外の場所を探そうとはしないんだろうと、不本意ではあるが気づいていた。
 なんだかんだ言って私も、佐伯先輩と話すことを楽しんでいるのだから。



 三年近く前、こんな覚えている意味もないような日々を、先輩と私は積み重ねていた。



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