アホ子はキスがしたい

 健司と一対一のお付き合いを始めて、二週間くらいがあっというまにすぎた。
 今まで付き合っていた人たちとは、最初の数日で円満にお別れすることができた。
 みんな、奈穂子のことをそんなに好きじゃなかったんだろうと、今の奈穂子は冷静に受け止められる。
 うそつきだ。裏切りだ。そう思う自分もいるけれど、奈穂子には健司がいるから。健司さえいてくれれば、奈穂子は大丈夫だった。
 雅を殴った健司は、次の日からも普通に学校に登校した。今までの学習態度から、注意程度ですんだらしい。
 反対に、一発殴っただけの健司よりも、何度も殴り返したり蹴ったりした雅のほうが、処分は重かった。数日学校に来なかったから、メールでお別れを告げたけれど、やっぱり『わかった、アドレス削除しておくね』の一言だけですませられてしまった。
 恨み言を言いたい気もしたけれど、もう、どうでもいいという気持ちのほうが強かった。奈穂子にとって重要なのは、健司が傍にいてくれること。それだけだったから。

 そうして健司とお付き合いをすることになったわけだけれど。
 まず、健司は、アホ子な奈穂子にもわかるように、細かい決まり事をたくさん作った。

1、健司以外の男の人とお付き合いをしない。告白されても断ること。
2、健司以外の男の人とキスをしない。
3、健司以外の男の人とセックスをしない。
4、健司以外の男の人と手をつないだり、抱き合ったりは、特別な理由がない限りはしない。
5、健司以外の男の人を好きだと思ったら、健司に報告すること。
6、決まり事を破ったときは、お別れする。

 浮気をするな、と言われて、どこからが浮気? と奈穂子が首をかしげたために、細かく定義してくれたのだ。
 とてもわかりやすくて、これならちゃんと守れそうだ、とアホ子は思っている。
 せっかく大好きな健司と付き合えるようになったんだから、別れたくなんてない。
 奈穂子は健司さえいればそれでいい。
 健司が傍にいてくれるなら、他の人とキスしなくても、セックスしなくても、何も困らなかった。

 ただ、現状に不満がないわけじゃなかった。
 わかりやすく恋人とそれ以外を決まり事で線引きしたのに、健司は恋人としての特権を行使しようとしないのだ。
 つまりは、キスしない。セックスしない。
 それどころか抱きしめることすらまれだ。というか奈穂子が一方的に抱きついて、仕方なく抱き返してくれる程度。
 恋人なのに、せっかくお付き合いしてるのに。
 お付き合いを始めて二週間。ちょっとずつちょっとずつ、奈穂子は不満を募らせていた。



 授業が終わり、部活が終わり。今日も奈穂子は健司の家に遊びに来ていた。
 おばさんには、奈穂子とお付き合いを始めたことはちゃんと報告してくれたらしい。
 大歓迎具合は変わらないけれど、前以上に対応が甘くなったような気がする。
 今日はおやつにとどらやきを出された。ドルえもんほどではなくても、どらやきは嫌いじゃない。甘いもの全般好きなので、もちろん和菓子も好きだった。
 冷房の効いた部屋で冷たいほうじ茶とどらやき。いつものことだったので気にしていなかったけれど、考えてみればずいぶんといたれりつくせりだ。
 健司から聞いた話によると、奈穂子が来たときしかこうやっておやつが出されることはないらしい。どんどん来ていいぞ、と言われたのはおやつ目当てではないと信じたい。

「……アホ子、どうかしたか?」

 ベッドの上でごろごろしながら、健司のことをじーっと見ていたのだけれど、早々にばれた。
 こちらを振り返った健司は、いつもどおり眼鏡をかけている。その奥の黒い瞳は、まっすぐ奈穂子に向けられていて、それだけで頬がゆるんでしまう。
 奈穂子が家に遊びに来ても、健司は付き合う前とあまり変わらず、宿題をしたり予習をしたり本を読んだりしている。
 けれど奈穂子が話しかければ、前よりもきちんと応えてくれるし、いきなり抱きついたりしても嫌がらないし、奈穂子が黙っていたりするとこうして気を配ってくれる。
 変わらないようでいて、だいぶ変わった対応。
 意味もなくへらへらと笑う奈穂子に、アホみたいな顔、と健司は言いながら苦笑するのだ。
 それだって、奈穂子にとってはしあわせで。金魚鉢はもうないけれど、あたたかいものが心にあふれてくる。

「暇ならお前も本でも読むか?」
「ううん、いい。健ちゃん見てる」
「……楽しいのか?」

 会話をしながら、健司は椅子から立ち上がって、奈穂子のいるほうに移動し、ベッドの端に座った。
 両手を後ろについて、身体をひねってこちらを向く健司に、奈穂子はまだちょっと慣れない。正確にはこの距離感に。健司から近づいてきてくれることに。
 距離が近い。顔が近い。手を伸ばしたら届いてしまう。抱きつけてしまう。キスだって、やろうと思えばできてしまいそうだ。
 そういえばファーストキスの相手は健司だったような気がする。
 そんなことを思い出して、思わず健司の薄い唇をじっと見てしまう。

「なんだよ」

 奈穂子の視線に、健司は怪訝そうな顔をする。

「ねえ健ちゃん。なんでなんにもしないの?」

 奈穂子は思ったことをそのまま問いかけた。
 何も考えずに、気づいたら口から飛び出していた。

「なんにもって?」
「キスしたりとか、エッチしたりとか」

 はっきりと告げれば、健司は大きく目を見開いた。眼球の大きさがわかるんじゃないだろうかというほどに。
 それから、勢いよく顔をそらされた。いや、正確には身体ごと。
 背中を丸めて、はあああと深いため息をつく。
 奈穂子は何かまた、間違ったことを言ってしまったようだ。

「……アホ子。身体目当ての奴らと一緒にすんな」

 苦々しい声で、健司は言う。
 別に一緒にした覚えはないんだけれども、健司にはそう聞こえてしまったらしい。
 奈穂子はただ純粋に不思議だっただけだ。
 そして、あわよくばキスとかしてくれちゃったりしないかなぁ、と思っていただけだ。

「ナホ、健ちゃんの好みじゃない?」
「ちげーよ。あのな、アホ子。そういうのはそう簡単にしていいもんじゃないんだ」

 わからない。わからない。
 簡単なんかじゃない。
 奈穂子は、健司が好きだ。大好きだ。他の人たちと比べられないくらい大切で、大大大好きだ。
 他の人たちとどう違うのか、と聞かれても答えられないけれど、ずっとずっと、子どものころから、大好きだった。
 だから、奈穂子は、

「ナホは、健ちゃんとそういうことしたいよ」
「おまっ……。ったく、たち悪ぃ」

 バッと振り返ったかと思うと、健司はガシガシと頭を掻きだした。
 いつもは癖ひとつない、男子として一般的な長さの髪が、ぐしゃぐしゃになる。
 奈穂子は健司を苛立たせるようなことを言ってしまったんだろうか。
 また前みたいな関係に戻るのは嫌だけれど、キスしてもらえないのも嫌だ。

「健ちゃんは、したくない?」

 それだけ、尋ねてみることにした。
 したくないと言われたら、もうあきらめよう。
 男の人はみんな、女の子にムラムラするもので、抱きしめたりキスしたりセックスしたりしたくなるものだ。奈穂子は経験則で知っている。
 健司がその気になるまで待てばいい。それだけのことだ。

「……したくないわけじゃない」
「じゃあ、なんでしないの?」
「お前の、中で。……他の奴らと、同列に並べられるのは、我慢ならない」

 眉間にいっぱいしわを寄せながら、健司はようやく、理由を述べた。
 いまいち奈穂子はその言葉の意味を理解できなかったけれど、なんとなく、健司が悩まなくていいことで悩んでいることだけはわかった。

「変なの。健ちゃんは健ちゃんなのに」
「なんだよそれ」

 眉間のしわがまた一本増えた。
 いけない、ちゃんと自分以外にも伝わるように話さなければ。
 伝える努力は、大切。自分でもわかっていないことだって、言葉にしていくうちにわかっていくこともある。
 二週間前までの奈穂子は、健司がまだ奈穂子を好きでいてくれていることを知らなかった。健司が言ってくれなかったからだ。
 言葉にしなければ、伝わらない。伝わらなければ、すれ違ってしまう。それはもうイヤだ。
 もう健司とすれ違ったりはしたくないから、奈穂子は言葉を惜しまないようにしようと思っていた。

「うーんと、ね。健ちゃんは、ナホの中で、健ちゃんっていう、そういう枠があって。心に健ちゃん専用の場所があるっていうか。特別? とか、唯一? っていうやつ、かな?」

 うんうんと頭を悩ませながら、なんとか通じるよう言葉をひねり出す。
 健司はずっと、奈穂子の心の中で、特等席に座っていた。
 子どものころ、金魚鉢を割ってしまった奈穂子の傍にいてくれて、奈穂子が落ち着くまで手を握っていてくれたあの時から。もしかしたらもっと前から。
 ずっとずっと、健司は奈穂子の、奈穂子だけのヒーローだった。
 健司専用の場所に、健司以外を住まわせることなんて、奈穂子には想像もつかなかった。

「どこまで信じりゃいいんだろうな……」
「信じてよう。信じてくれないとナホ悲しい……」

 しょぼん、と奈穂子は眉を垂らして、肩も落とす。
 奈穂子が健司を好きだ、ということを、健司は信じていないふしがある。それくらいは奈穂子にもわかっていた。
 奈穂子の過去の行いがよくなかったんだろうということも、なんとなく理解はしている。なんとなく、だけれど。だからってどうしたらいいのかもわからないけれど。
 奈穂子はただ、悲しい。気持ちを信じてもらえないということは、健司にとって奈穂子の気持ちはないも同然ということだから。
 認めてもらえない恋心は、かわいそうだ。

「わかった、奈穂子。お前、自分のこと名前で呼ぶのやめろ」
「へ?」

 唐突に話題を変えられて、奈穂子は間抜けな声を出す。

「ナホ、って言わずに、私って言え。少なくても学校では」
「なんで? それ、今関係ある?」

 奈穂子はただただ不思議で首をかしげる。
 どうして健司がいきなりそんなことを言い出したのか、全然わからなかった。

「自分のこと名前で呼ぶやつってのは、バカにされやすい。そう見るほうが悪いっつっても、印象ってのは大事だろ。お前のためだ」

 健司が奈穂子のことを考えてくれているのは、わかっているつもりだ。
 彼が優しい人だということを、奈穂子は誰よりも知っている。
 誰より優しくて、誰よりも頭がいい。そしてきっと……誰より奈穂子のことを好きでいてくれている。
 そんな健司の言うことが、間違っているはずがない。
 そう、わかってはいるのだけれど。

「お前が自分のこと、自然と私って言えるようになったら、キスしてやる」

 なんて、ちょっと意地悪そうに笑って言われると。
 キスしたいのは自分だけなのかなぁ、と拗ねたくもなる。

「……健ちゃんはナホとキスしたくないんだぁ」
「してぇよ。だから、がんばってくれよ」

 健司の笑みが、少し、苦いものに変わる。
 冗談のようにも聞こえるけれど……そこにはちゃんと、本気が入っているんだろうか。
 健司は嘘をつかない。そのことを奈穂子はよく知っている。
 だから、キスしたいと言うなら、本当に、奈穂子とキスをしたいんだろう。
 そう思っても、うぬぼれても、いいんだろう。

「うん、がんばる。ナホがんばる!」

 両手で握りこぶしを作って、奈穂子は気合いを入れた。
 成せばなる。やろうとしなければ何もできない。
 一人称は小さなころからの癖だけれど、気をつけようとすればきっと変えられるはず。
 ご褒美を目の前につるされた奈穂子はやる気に燃えていた。

「……先行き不安だな」

 そんな奈穂子に、健司は小さくため息をついた。
 早速、自分を名前で呼んでしまっていることに、奈穂子は気づいていなかった。



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